アフ・チュイ・カック  第二十九章


「ミリア…っ」
 逃げることも出来ずに立ち尽くすハボックの側に立っていたロイがグイとハボックを押しやる。その唇から零れた言葉が焔の渦を巻き起こすのと、ミリアの手が二人めがけて伸びてきたのがほぼ同時だった。ミリアの手が焔に触れたその瞬間、ゴオオッと八方に向けて焔が飛び散る。
「うわああっっ!!」
『ぎゃああっっ!!』
 悲鳴を上げて吹き飛ばされたハボックは地面に手をついて辺りを見回した。少し離れた場所で倒れ伏しているロイを見つけて駆け寄ろうとしたハボックの足を何かが掴む。
「あっ?!」
 前のめりに倒れこんで自分の足首を掴む物を見れば、それはミリアの手だった。その手が繋がる先でミリアの姿をしたものがむくりと起き上がる。ニタリと嗤うそれに息を飲んだハボックの足を、その手がグイと引いた。
「は、離せっ!」
 蹴り上げるようにして振りほどこうとしても、ガッシリと食い込んだ指は緩む気配もなく、それはズルリと地面を這うようにしてハボックに近づいてくる。後ろ手に手をついて倒れた自分の上に圧し掛かってくるそれを、ハボックは呆然と見上げた。
「ジャン」
 唇から零れる声は確かにミリアのものなのに、ミリアの気配のしないそれにハボックはゾクリと背を震わせる。ミリアはうっとりと嗤うとハボックの顔を覗き込んだ。
「あいしてるわ、じゃん」
 まるで壊れたおもちゃのようなその声音にハボックは目を見開く。そうして辛そうにくしゃりと顔を歪めると瞳を閉じた。
「じゃん、わたしといっしょに、しんで」
 そう言うミリアをハボックは目を開けて見つめる。
「それが望みなの、ミリア?」
 幼い時からずっと助けられてきた。ミリアを一人の女性として愛することは出来なかったけれど、それでもこの命を差し出すことでミリアが満足するなら、それでもいいと思えて。
「いいよ、ミリアがそうしたいなら」
 ハボックはそう呟くように言うとミリアを見つめる。ミリアは嬉しそうに笑うとハボックをギュッと抱きしめた。その途端。
『愚かな呪術師め』
「なっ…あっ、アアッ!!」
 ハボックを抱きしめたミリアの体から凄まじい邪気が溢れてハボックを飲み込んでいく。
「うあああああっっ!!」
 自分の中に雪崩れ込んで来る禍々しいものにハボックは背を仰け反らせて絶叫を上げた。
『お前のその魂、我のものにしてくれよう』
「ヒッ、アアッ…やめ…っ」
 ビクビクと体を震わせるハボックの意識がフッと遠のきそうになった時。
「ハボックっっ!!」
 ゴオオッと熱風が噴きつけてハボックを抱きしめるミリアの手が緩む。追い討ちをかけるように襲い掛かってくる焔の龍にミリアは悲鳴を上げてハボックを離した。ドサリと地面に倒れるハボックの体をミリアから引き離すように抱き寄せてロイはハボックに怒鳴る。
「しっかりしろっ、ハボックっ!!」
「…ロ、イ」
「ミリアを助けるんだろうっ、ア・プチの言葉に惑わされるんじゃないっ!!」
 ロイはハボックに手を貸して立たせるとミリアから距離を取った。あちこち体を焼かれてそれでもミリアはゆらりと立ち上がると二人を睨みつける。更に後ずさってミリアから離れるとロイはハボックに聞いた。
「大丈夫か?」
「体中がザワザワします…」
 そう言うハボックをロイはチラリと見る。
「ア・プチがオレの中に入り込んできたんスよ。真っ黒で冷たくて…あんなのがミリアの中にいるなんて…」
 ゾクリと体を震わせてハボックは言葉を続けた。
「オレ、ヤツの言葉に惑わされて結界のガラスを壊しちまった。ミリアを助けるなんて言っておきながら…っ」
 これからどうしたら、とギリと歯を食いしばるハボックを見ずにロイが言う。
「私がヤツの動きを止める」
「なに言ってるんスかっ!」
「ミリアを助けるんだろう。他に方法があるか?」
 そう聞かれてハボックは返す言葉もなく口を噤んだ。
「でも、下手にヤツの力とアンタの力がぶつかったら…」
「そうなる前にお前ならヤツをミリアから引き離して封印できるだろう?」
「ロイ…」
 にっこりと笑うロイにハボックは目を瞠る。
「約束、忘れてないだろう?」
 そういうロイにハボックも笑った。
「忘れるもんですか」
 ハボックはそう言うとミリアを見やる。
「ミリアの動きを止めてください。でも、ムリはしないで」
「判ってる」
 ロイはそう答えると、ハボックを支えていた腕を離した。ハボックの数歩前に出たロイにハボックが言う。
「愛してますよ、ロイ」
 そう言えばロイが唇を歪めたのが顔を見なくてもハボックには判った。
「そういうことは全部終わってから言え」
 耳を紅く染めて素っ気なく言うロイにハボックは薄く笑うと次の瞬間には笑顔をかき消し、野原に立ち尽くすミリアを空色の瞳でヒタと見つめた。

 ミリアは離れた場所に立つハボックをじっと見つめていた。風に金色の髪をなびかせて立っているハボックを見つめるミリアの脳裏に幼い日のハボックの姿が浮かび上がる。

『ミリア』

 そう呼んで笑う空色の瞳が好きだった。輝く金色の髪が。
「ジャン…」
 想いを込めてそう呼べば全身の血が沸騰するような気がする。自分だけがハボックを救えるのだと思っていた。自分こそがジャンの隣りにいるのがふさわしいと。
 だが、実際にハボックが選んだのは自分ではなくて。その事実がミリアを打ちのめし、憎悪に追い立てた。だからハボックを殺し、ロイを殺してやろうと思った。そうするのが自分の権利だと思っていた。だが。
『それが望みなの?』
『いいよ、ミリアがそうしたいのなら』
 そう言うハボックの空色の瞳がミリアの目の前に広がって。
「ジャン…ジャン」
 ミリアがそう囁いた時、ミリアの中にいるそれが話しかけてきた。
『何をしている。さっさとアイツらを殺し――。』
「うるさいっっ!!黙れっっ!!」
 ミリアはそう怒鳴ると拳を握り締める。
「うああああああっっ!!」
 もう戻ることなど出来はしないのだと。
 ミリアは喉を仰け反らせて空に向かって叫ぶ。
 そうしてハボックとロイを目がけて地面を蹴って走り出した。


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