アフ・チュイ・カック  第二十七章


 禍々しい気が村のどこよりも濃密に立ちこめ、息をするのすらやっとと言う場所にたどり着いた時、ハボックはそこが幼い頃よく遊んだ野原だったことに目を瞠る。その時、獣じみた声が天を貫いて響き渡り、ハボックはその声の源に目を向けて息を飲んだ。
「ミリア…」
 カイに聞いて判っていた筈だった。それでもその姿を目の前にすると信じられないという思いの方が先に立つ。
「ミリア、どうして…?」
 曲がったことの嫌いな少女だった。ハボックがその出自ゆえに疎まれ、理不尽な扱いを受けることに誰よりも、ハボック自身よりも怒っていたのはミリアだった。そのまっすぐな気性は側にいるハボックにはとても眩しくて、そんな彼女が自分の事を気にかけてくれることがどれ程ハボックにとって支えになっていたことだろう。ハボックは野原の真ん中に立つミリアの姿を見つめた。美しかった面はやつれてその中で紅い瞳だけがギラギラと輝き、艶やかだった髪はざんばらに解けて風になびいている。その足元に散らばる人間と思しき血まみれの肉塊に目をやった時、ハボックの顔が辛そうに歪んだ。大切だった少女のその心の中の人間だったら誰しも持っているようなほんの小さな闇に、喰らいつき彼女の心を壊してしまった悪しき存在を、ハボックは心の底から赦せなかった。
「ミリア」
 よく通る声が野原の真ん中に立つミリアに向けて発せられたのと同時に、ミリアの足が地を蹴り人間とは思えぬ速さでそのしなやかな体がハボックとロイに向かって飛び出す。二人の間を断ち切るように飛び込んできた体に、ハボックとロイは繋いでいた手を離して左右に飛び退った。二人がいた場所に立ったミリアの体から凄まじい怒気が迸り、二人の体を追う。
「う、わっ!!」
 怒気から逃れるように後ろに身を引いたハボックだったが、よけきれずにソレをくらって吹き飛ばされた。
「ハボック!」
 自分の前に咄嗟に火の壁を出して身を守ったロイは、吹き飛ばされた勢いでゴロゴロと転がるハボックの姿に叫び声をあげる。その声に振り向いたミリアの瞳が紅く輝きロイは自分の体がふわりと浮き上がるのを感じた。
「…っっ!!」
 咄嗟に口を突いた言葉が小さな焔をまとってミリアの顔で弾ける。
「ウガアッ!」
 獣じみた声がミリアの唇からあがり、ロイの体がドサリと地面に落ちた。腕で焔を打ち消したミリアが、一層憎悪を漲らせた瞳でロイを睨む。その腕が伸びてロイの喉元を掴んだ。
「ぐぅっ!!」
 地面に倒れたロイの体に圧し掛かったミリアが、人間とは思えぬ力でロイの首を締め上げる。ロイが掠れた声で呟いたのとようやく起き上がったハボックが叫んだのがほぼ同時だった。
「Αέρας,  που  βγάζει  από  τη  θέση  που  ήταν το  σώμα  της!」
 ミリアの喉が空気を求めるようにヒクリと鳴ってその手が緩んだかと思うと、その体が横からぶつかるように吹いてきた空気の塊りにドンッと思い切り吹き飛ばされる。
「ロイっ!」
「大丈夫だっ」
 ゲホゲホと咳き込みながらそう答えるロイにハボックがホッとしたのも束の間、ロイの周りに物凄い量の土砂が舞い上がった。
「な…っ?!」
 上がったと思った次の瞬間、ドザザザザッッと塊りになった土くれがロイの上に降り注ぐ。凄まじい砂埃に一瞬視界を遮られたハボックがロイの姿を見失い、その身を案じて駆け寄ろうとした時、砂埃の中から飛びかかってきた体に体当たりされて諸共に地面へと倒れこんだ。自分に圧し掛かるミリアの顔を見上げて、ハボックは悲しそうにその名を呟いた。
「ミリア…」
 その声にビクリと体を震わせたミリアは、だがハボックの左胸にぐいと手のひらを押し当てる。引き裂くような痛みが走ってハボックは咄嗟に叫んでいた。
「Βγάλτε  από  τη  θέση  που  ήταν!」
 その言葉に弾かれるようにミリアの体が後方へ吹き飛ぶ。ハボックが鋭い痛みの走る胸を見下ろせば、そこは深く引き裂かれて血が噴き出ていた。
「くそ…」
 ドクドクと溢れる血を押さえて、それでもハボックはロイがいた方へと走る。ようやく砂埃が納まってきたその中心に焔の渦に守られたロイが蹲っていた。
「ロイ!」
 ハボックが駆け寄るとその渦は消えロイが視線をあげる。あちこち服を引き裂かれ、白い肌に血を滲ませるロイに手を貸して立たせるとハボックは指で頬に滲む血を拭った。
「大丈夫っスかっ?」
「こっちのセリフだっ!」
 ロイは血が零れるハボックの胸に触れようとして、慌てて手を引っ込める。
「どうしたら…」
「焼いて、アンタの焔で!」
 ハボックの言葉にロイはギョッとしてハボックを見上げた。
「何言って…」
「傷口焼いたら血が止まるでしょう。このまま失血が過ぎれば身動き出来なくなる。早くっ!」
「でも…」
 その時背後でミリアが起き上がる気配がしてハボックはロイに向かって叫んでいた。
「焼けっ!」
 ビクリと体を震わせて、微かに首を振りながらそれでもロイの唇から言葉が零れ出る。焔をまとった言葉はハボックの胸の傷を焼いて、あたりに肉の焦げる匂いが立ち込めた。
「ぐうっっ…!!」
 身を焼かれる痛みに呻き声をあげて、それでも必死に耐えるとハボックはロイを見る。傷ついたように涙の滲む瞳を見開くロイの頬に軽く唇で触れると、ハボックはロイを背後に庇うようにしてミリアに向き合った。ミリアは紅い瞳を大きく見開いて二人をじっと見つめる。ゆっくりと口を開くとハボックに向かって言った。
「どうして…?どうして私じゃないの?ずっと側にいたのは私だったのに…」
「ミリア」
「どうして私から離れていくの、ジャン…?」
 ハボックはミリアの顔をまっすぐに見て答える。
「離れたつもりはないよ、ミリア。オレにとってミリアは、これまでもこれからも大切な家族だ」
 心を込めたハボックの言葉に、だがミリアの顔は怒りに歪んだ。
「そんなもの、望んでないっ!!」
 ミリアの体の中から邪気が大きく膨れ上がる。ミリアの紅い瞳がハボックの背後のロイを見据えた。
「私の場所を返せッッ!!」
 グワと限界まで膨れた邪気が至近距離から二人に襲い掛かる。
「危ないっ!!」
 ハボックはロイの体を庇うように抱き込みながら叫んだ。
「Το  φως,  μας  προστατεύει  με  να  λάμψει!」
 ハボックの唇から零れた言葉が輝く衣となって二人を包む。辺りを眩い光が包み、そして何も見えなくなった。

 ヘンリーは息を弾ませながら誰もいない通りを走っていた。自分の少し先にはサキコショルがその翼を広げて羽ばたき、時折尻尾の先から焔が宙を舞って零れる。ヘンリーのすぐ横には茶色の子犬が主人を守るようにぴったりと寄り添って走っていた。ヘンリーは振り返りたい気持ちを抑えて走り続ける。振り返ったらきっと大好きな友人のもとに戻りたくなってしまうから。これから最後の戦いに挑む彼らにとって自分は足手まといにしかならず、彼らのためを思うなら自分は安全な場所に隠れているべきなのだ。ヘンリーは目指す家が見える所までくると、スピードを落としゆっくりと歩いた。ハアハアと肩で息をしながらその扉の前に辿りつくとそっと手を上げる。一瞬躊躇ってからコンコンと扉を叩けば暫くして中からいらえがあった。
「誰だ…?」
「ボク、ボクだよ、ヘンリーだよ、カイおじさんっ」
 警戒するような声に慌ててそう答えれば、弾かれたように扉が開く。
「ヘンリーっ?!」
 驚き顔のカイが姿を現して、ヘンリーは飛びつくようにその腰にしがみついていた。
「カイおじさんっ!」
「ヘンリー、どうしてここに?ママはどうした?」
 そう聞かれてヘンリーはふるふると首を振ると答える。
「ママはどこにいるかわかんない。家で隠れてたらジャンたちが来てカイおじさんのところに行けって…」
「そうか、ジャンたちが…」
 カイは呟くように言うとヘンリーを中へと招きいれ、扉を閉めようとする。ヘンリーにくっついて入ってきたユーリの後ろから飛び込んできた焔の塊りに、カイは驚いて叫んだ。
「なっ、なんだっ?!」
 バサバサと焔を撒き散らして飛ぶソレが洞窟で見た火蜥蜴と判ってカイはホッと胸を撫で下ろす。
「ロイがボクを守れって一緒に来させてくれたの」
 ヘンリーの言葉にカイは笑うとサキコショルに礼を言った。
「そうだったのか、ありがとうな」
 そう言えば火蜥蜴はポッと焔を吐いて椅子の上に舞い降りる。翼をたたんで体を丸めると金色の目を閉じて眠ってしまった。
「とりあえず、今のところ危険はないということなんだろうな」
サキコショルの様子にカイはそう言うとヘンリーをソファーに座らせる。
「二人は行ったんだな」
 そう聞けば子供はコクリと頷いた。
「そうか…」
 呟いて子供の体をギュッと抱きしめるカイに、ヘンリーは囁くように尋ねる。
「帰ってくるよね、ジャンもロイも…」
「ジャンは約束したんだろう?帰ってくるって」
 小さく頷く子供の体を抱きしめながらカイは言った。
「これまでジャンはお前との約束を破ったことなんてなかっただろう?だったら大丈夫さ」
 カイはそう言って安心させるように子供の背を撫で続けたのだった。


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