アフ・チュイ・カック  第二十五章


 二人は人の気配のない通りを歩いていく。村を覆いつくす禍々しい気に誰もが見つからないよう息を潜めているようだった。
「血の匂いがする」
 ロイがそう呟いたちょうどその時、通り過ぎた家の扉が風に煽られてバタンと音を立てた。その音に引き寄せられるように家へと足を向けるハボックの腕をロイが掴む。
「ハボック」
 引き止めようとするロイの視線を振り切ってハボックは扉を押し開いて中へと入った。途端にムッとする血の匂いに思わず袖を鼻に当てて中へと進めば血まみれで倒れている村人の姿があった。ヒュウヒュウとその喉もとから聞こえる音が僅かに息のあることを知らせて、ハボックはその傍らに膝をついた。
「ロイ」
「ムリだ。もう助からない」
 振り返らずに問いかけるハボックの後ろに立ったロイがそう答える。ハボックは唇を噛み締めると死にかけている男の胸元に手を当てた。
「Σε σας  ομοιόμορφος  ύπνος.」
 ハボックがそう小さく呟くと男の体がビクンと震え、そうしてくたりと弛緩する。男の命を繋ぎとめていた糸がふるりと震えて宙に溶けて消えたのを感じて、ロイは驚きに目を見開いた。
「ハ、ボ…お前っ、どうしてその言葉…?!」
 ロイは男の体をそっと床に横たえるハボックの肩をグイと掴む。驚きの色を湛える黒い瞳を見上げてハボックは静かに笑った。
「あの本…祠から持ち帰ったあの本読んでからこっち、言葉が内側から湧いてくるんスよ。時々ね」
 ハボックはそう言うとゆっくりと立ち上がった。
「行きましょう、一刻も早く止めなくては」
 そう言って扉から出て行くハボックをロイは呆然と見つめる。
『ばあちゃんはオレに呪術を教えたがらなかった』
 ロイはかつてハボックが言っていた言葉を思い出す。
(教えたがらなかったわけじゃない。教える必要がなかったんだ。多分アイツの中にはアイツが知らないだけで、とてつもない力が眠ってる。)
 ロイが眠っていた洞窟にハボックが迷い込んだのも、単に結界を這っていた石が豪雨に流されたというのではないのだろう。メダルがハボックを選んだのも、サキコショルが攻撃しなかったのも、ケッツァールが懐いたのも全てはハボックが内に秘めた力のせいだ。
「ハボック…」
 もしかしたらハボックはかつてロイが知っていたあの呪術師の男よりも大きな力を秘めているのかもしれない。ロイはクッと唇を噛むとハボックの後を追って家を出た。

 家の外で待っていたハボックにロイが追いつくとハボックはロイに向かって言った。
「この少し先にヘンリーの家があるんスよ」
「寄っていくのか?」
「ええ、どうしてるか気になりますし」
 そう言って歩き出すハボックの後についてロイも歩き出す。小走りに走ってその隣りに並ぶと、ロイはハボックの手の中に自分の手を滑り込ませた。ちらりとロイを見てその唇に笑みを浮かべるとハボックはロイの手をキュッと握る。そうして手を繋いで暫く行くと小さな家にたどり着いた。ハボックはちょっと躊躇ってから扉を軽くノックする。いらえがないことにロイと顔を見合わせるとそっと扉を押した。
「ヘンリー?」
 声をかけたもののシンと静まり返った家の中には人の気配がなかった。
「親と一緒に逃げたのか?」
「だったらいいんスけど」
 ハボックがそう呟いた時、クゥと犬の鳴き声がする。二人はハッとして外へと出ると裏の納屋へ回った。
「ユーリ?」
 そう名を呼べば怯えきった子供の声が返ってくる。
「ジャン?ジャンなの?」
「ヘンリー!そこにいるのか?」
 ガタンと積み重なった箱が崩れて、その奥から犬を抱きしめた子供が現れた。
「ヘンリー!」
 ハボックとロイが立っているのを見たヘンリーは物も言わずにハボックに飛びついてくる。ギュッと抱きしめてくる力強い腕に耐え切れずワッと泣き出してしまった。
「ヘンリー…」
 ハボックは泣きじゃくる子供を抱きしめると何度も何度もその背を撫でる。子供が落ち着いて泣き止むまで、ハボックは何も言わずにヘンリーを抱きしめていた。どれくらいそうしていたのか、ようやく子供が涙に濡れた顔を上げるとハボックはその頬をそっと拭ってやる。小さな背をポンポンと叩くとヘンリーに聞いた。
「ママはどうした?」
 そう聞けば子供はふるふると首を振る。
「わかんない。昨日から帰って来ないの」
 畑に出かけたきり帰って来ないのだと言うヘンリーにハボックとロイは顔を見合わせた。
「ずっと一人で怖かったろう。よく頑張ったな」
 ロイにそう言われてヘンリーの目に新たな涙が浮ぶ。
「ユ、ユーリがいたから…」
 そう言うヘンリーに答えるように犬がワンと鳴いた。ハボックは手を伸ばして犬の頭を撫でて言う。
「お前も頑張ったな、ユーリ」
 嬉しそうに目を細める犬をひとしきり撫でるとハボックは立ち上がった。
「このままヘンリーを一人でここにおいて置くわけにはいかないっスね。ロイ、ヘンリーをカイおじさんのところまで連れていって――」
「嫌だ」
 ハボックが言い終わらぬうちにそう答えるロイにハボックは困ったように眉を顰める。
「ロイ、ヘンリーを一人で行かせるわけにはいかないの、判りますよね?」
「だったらお前も一緒に来い」
「ロイ」
 宥めるように名を呼ぶハボックをロイはキッと睨みつけた。
「私はお前から離れないからな」
 そう言うロイの脳裏に遠い昔の記憶が甦る。無理矢理遠ざけられて守ることも赦されなかった、もう二度とあんなことはごめんだ。
「命令なんかしてみろ、絶対に赦さないぞ」
 そう言って睨んでくる黒い瞳をハボックは困りきって見返す。ここから二人で引き返す時間のロスは痛いが、それでもヘンリーをこのままここに置いておく事も、一人でカイのところまで行かせるわけにもいかないのなら仕方ないかとハボックが思ったとき、ロイがふと思いついたように言った。
「要するに一人で行かせなければいいんだろう?」
 ロイはそう言うと小さく言葉を唱える。フイと現れた火蜥蜴を腕に載せるとその金色の瞳を見つめて言った。
「ヘンリーがカイの家につくまで守るんだ」
 だが、サキコショルは気のない様子でカハッと煙を吐き出すとそっぽを向く。ロイはムッと唇を歪めると火蜥蜴の頭を指で押さえつけて言った。
「消されたいのか?」
 サキコショルは押さえつけられたまま金色の瞳でロイを睨んでいたが、ポッと火を吐く。それを了承の印と取って、ロイは押さえつけていた指を離すと火蜥蜴をヘンリーの方へ差し出した。
「カイの家に行くまでコイツがお前を守ってくれる」
 ヘンリーは目を見開いて火蜥蜴を見つめていたが、心配そうにハボックを見上げる。ハボックは跪いてヘンリーの顔を見ると安心させるように言った。
「大丈夫。小さくても頼りになるし、ちゃんとヘンリーをカイの家まで守ってくれるよ」
「ボクのこと、燃やしたりしない?」
「大丈夫だよ」
 くすりと笑ってハボックはロイの腕からサキコショルを取り上げるとヘンリーと向き合わせる。
「オレの大事な友達なんだ。守ってあげてくれ」
 そう言うと、火蜥蜴は翼を広げて飛び上がり、ふわりとヘンリーの頭に飛び乗った。
「わっ!」
 ビックリして首を竦めるヘンリーにハボックが言う。
「カイおじさんと一緒に待ってて」
 そう言われてヘンリーは不安げに数度瞬くと尋ねた。
「勝てるよね?」
 その言葉ににっこりと笑うハボックを子供はギュッと抱きしめる。
「待ってるから。ずっと待ってるから必ず帰ってきてね」
 そう言う小さな体を抱き返すとハボックは立ち上がってヘンリーを行くべき方向へと押し出した。
「きっとだよ。待ってるからね!」
 ヘンリーはそう言うとユーリを連れて駆け出す。何度も振り返りながら小さくなっていく姿を、ハボックはロイと一緒に見送ったのだった。


→ 第二十六章
第二十四章 ←