アフ・チュイ・カック  第二十二章


 ハボックは祠から取り出した本を懐に入れるとロイの手を取る。そうして来た道を再び互いの手を握り締めて洞窟へと戻っていった。結界を抜ける前に心配そうに村のある方へと視線を向けたハボックにロイが言う。
「心配なら様子を見に行ってくるぞ」
 その言葉に眉を顰めるハボックにロイは慌てて言った。
「見てくるだけだ。何もしない。それならいいだろう?」
 だがハボックは緩く首を振ると答える。
「見てきたところで今何も出来ないことには変わりないっス。だからアンタはここにいて」
 縋るような色を湛える瞳にロイは黙って頷くとハボックの手を取って結界を通り抜けた。ゆらりと揺れて消えた入口を振り返りもせず二人は洞窟の中を進むとさっきカイの話を聞いた場所へと戻る。
「少し何か食べましょう」
 ハボックはそう言うとカイが持って来てくれた荷物の中から干し肉やパンを取り出した。ロイはカップを持って泉に行くと水の湧き出る口にカップを押し付けて水を汲んでハボックのところへ戻ってくる。そうして二人は岩の上に腰を下ろすと黙々と食べ始めた。
「この水」
 暫くしてハボックがぽつりと言う。
「不思議な水っスね。体を癒してくれるっていうか…」
「はるか昔に水の精霊が人間に恋して生まれたのがこの水だと言われている。傷を治し、疲れを取り去り、そして心をも癒してくれる。この水が湧くこの場所自体が癒しの力を持っている」
「だからここで眠ってたんスか?」
 どこかイガイガとしたハボックの声にロイは驚いてハボックを見た。ロイに半身背を向けるように座っているハボックの横顔にロイはくすりと笑うと言う。
「もしかして気にしてるのか?」
「何を?」
「私がかつて契約していた人間のことを」
 ロイの言葉に僅かに目を見開いて、だがハボックはなんでもないように答えた。
「別に何も気にしてないっス」
「じゃあどうしてこっちを見ない?」
 そう言われて振り向いたハボックの顔はムキになって拗ねた子供のようで、ロイは堪らずくすくすと笑い出す。
「…アンタ、意地悪っスね」
 悔しそうな声にますます笑いが止まらなくなるロイの腕をハボックが乱暴に引き寄せた。ハッとして見上げる黒い瞳を見つめながらハボックは言う。
「そうっスよ、気にしちゃ悪いっスか?アンタが癒しの力に縋りたくなるほど失って辛かった相手のこと、考えるとすげぇムカムカしてくる。どうして最初に出会ったのがオレじゃなかったんだろうって、すげぇ悔しい」
 嫉妬の色を浮かべる空色の瞳をロイはうっとりと見上げた。手に入れることはないのだろうと諦めていた空色が今自分に恋して嫉妬にその胸を焦がしているのだ。
「今私が好きなのはお前だ。それではダメか?」
 そう言って見つめてくる黒い瞳にハボックは悔しそうに目を細める。
「ずるいっスよ、アンタ」
 ハボックはそう呟くとロイの体をギュッと抱きしめた。それからロイに何度も触れるだけのキスをする。優しいだけのそれに焦れたロイがハボックの首に手を回すとグイと引き寄せ深く口付けた。
「ん…ぅんっ…」
 舌を絡め唾液を交えて貪るように口付ける。暫くして唇を離すとハボックはロイの髪に顎を埋めた。
「オレ…サイテーかも」
「ハボック?」
「だってオレ、今アンタのことばっか考えてる。こんな大変な時なのにアンタのことばっかり」
「ハボック…」
 ギュッと抱きしめてくるハボックの胸に抱かれてロイは幸せそうに微笑む。
「私だってお前のことばかり考えてる」
「ホントっスか?」
 不安そうに聞いてくるハボックに微笑んでロイは答えた。
「本当に」
 その答えを聞いた途端、ハボックの顔がみるみる内に紅く染まって、ハボックはロイを離すと背を向けて本に手を伸ばした。
「…方法探します」
 照れたように本に目を落とすハボックの背に、ロイは背中合わせに座ると寄りかかる。互いの体温を感じながら二人は自分達の未来をその手にするために何ができるのだろうと懸命にその方法を探すのだった。

 カイと一緒に村に戻ってきたヘンリーは大活躍だったユーリの体をギュウと抱きしめる。
「ありがと、ユーリ。お前がいてくれてホントによかった」
 そう言ってヘンリーはユーリの温かい体にホッと息を吐いた。今、村に起こっていることを思えば怖くないと言ったら嘘になる。ハボックは絶対に自分を殺させたりしないと言ってくれたし、ロイの言うようにハボックに危害を与えた人間が狙われているのだとしたら自分はまだ標的にはならないかもしれない。だが、そんなものはただの気休めでしかないことを、幼いながらにヘンリーは理解していた。犬の体温で気持ちを落ち着けようとしていたヘンリーは、突然低く唸り出したユーリの様子にハッとして振り返る。いつの間にかそこに立っていたすらりとした姿に息を飲んだ。
「…ミリア」
 カイの店には何度も行ったしミリアとも話をしたことがある。物言いはきついが、根は優しい素直な女性だと思っていた。だが、今ヘンリーの前に立つミリアはこれまで知っていたミリアとはまるで違っているようにヘンリーには見える。言葉もなく犬を抱きしめて自分を見上げる子供をミリアはじっと見つめていたが、やがて口を開くと言った。
「アンタ、ジャンの居場所を知ってるの?」
 そう聞かれてヘンリーは小さく首を振る。紅く光る目でヘンリーをじっと見つめていたミリアは低い声で囁いた。
「もし、隠し立てするようなことがあったらただじゃおかないわよ」
 その低くしわがれた声にヘンリーは犬を抱きしめる手に力をこめる。恐怖と緊張にヘンリーが叫びだしそうになった時、不意にミリアが背を向けた。そうしてそのまま何も言わずに歩き去る背が完全に視界から消えてしまうと、ヘンリーはぽろぽろと泣き出してしまう。心配そうにクウと鳴いてヘンリーの顔を舐めるユーリを抱きしめてヘンリーはしゃくりあげた。
「あ、ありがと…ユーリ」
 もしあの時ユーリがいなかったら耐え切れずにハボック達の居場所を喋ってしまっていたかもしれない。ヘンリーは涙を零しながら、ただユーリの体を抱きしめていたのだった。

「ジャン、どこにいるの…?」
 当てもなく村を歩いていたミリアはそう呟くと足を止める。いつの間にかたどり着いていたその場所は、幼い頃ハボックとよく遊びに来た野原だった。ハボックがかつて白い花を集めて自分に冠を作ってくれたことを思い出して、ミリアは足元に咲く花を摘む。すると手にした花はみるみる内にしおれてその花びらを散らしてしまった。その時、ガサリと草を踏む音が聞こえて、ミリアは音のした方を見る。髪をお下げに結んだ少女が驚いたように見つめているのに気づいて、ミリアはその子を睨んだ。
「何見てるのよ」
 そう言って一歩近づけば少女が一歩後ずさる。
「何見てるのかって聞いてるのよッ!」
 ブワッと巻き起こる怒気に煽られて尻餅を付いた少女の手に花冠が握られている事に気づいたミリアは少女に近づいた。
「自分で作ったの?」
 そう聞けば少女はふるふると首を振る。
「サムにもらったの…」
 震える声でそう呟く少女をミリアはじっと見つめた。
「大きくなったら結婚しようって、サムがくれたの」
 少女の言葉にミリアは僅かに目を見開く。ミリアは唇を噛み締めると少女の手を取り引き起こした。
「さっさとサムのところへ帰りなさい」
 ミリアがそう言って少女の背を押せば、少女は何度もミリアを振り向きながら駆けていく。細い姿が見えなくなると、ミリアは辛そうに眉を寄せた。
「私だって…私だってジャンと…っ」
 小さい時からずっとずっと好きだった。
「それなのにロイのせいで…っっ!アイツさえ現れなければ…!」
 ロイを優しく見つめるハボックの瞳が浮んでミリアは手を握り締める。爪が食い込むほど握り締めて、ミリアは呻くように言った。
「殺してやる…っ、探し出して引き裂いてやるっっ!!」
 喉を仰け反らせて空に向かって吠えるミリアの声が綺麗な空に吸い込まれていった。


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