| 紫 chap.5 |
| その日以来ハボックはロイのことを口にしなくなった。相変わらず新聞を読んではロイの動向を窺い、それを切り抜いたりはしていたが、その時も決してその名前を口にしようとしない。そうすることでなんとか自分の中で平静を保っていこうとしているようで、その痛々しい姿にノーマンは何も言うことができなかった。必死に明るく振舞う姿に今、自分ができる最大のことをやろうとする幼い姿にノーマンは胸が苦しくなる。せめて少しでも楽しく過ごせる様に、ノーマンは日々心を砕いていた。そんなある夜。 「ノーマン?」 自室の扉を叩く音に続いて聞こえたハボックの声に、ノーマンは読んでいた本を置くと立ち上がった。かちゃりと扉を開くと部屋の前にパジャマを着たハボックが立っていた。 「どうなさったんです?こんな時間に。ご気分でも?」 具合が悪いのかとノーマンは心配になってハボックの額に手を当てる。ハボックは緩く首を振ると、ノーマンのパジャマの裾を掴んだ。 「ここで寝てもいい?」 そう言って見つめてくる空色の瞳にノーマンは驚きのあまり言葉を失う。だが、表面上は何でもないようにいたって冷静な声で答えた。 「突然、どうなさったんです?怖い夢でもごらんになったのですか?何かお飲み物でもご用意しましょう。それを飲んだらきっと落ち着いてお休みに…」 「ノーマンっ」 ノーマンの言葉を遮ってハボックは言った。 「一緒に寝たいんだ、お願い」 「ハボック様…」 「オレがまたふらふら何処かに行ってしまわない様に、捉まえておいてよ」 「でしたら、ハボック様のお部屋の前で私が寝ればよろしいでしょう?」 「それじゃダメ」 ハボックが追い詰められたような目でノーマンを見上げる。その目に一瞬息を飲んだノーマンが口を開く前にハボックは言った。 「ノーマンしかいないから…。ごめん、ノーマンが断れないの知ってて、ズルイこと言ってるの判ってる。でも…っ」 ハボックはノーマンのパジャマの胸元を握り締めると言った。 「ノーマン、オレを何処へも行かせないで…っ」 ノーマンはハボックの細い体を強く抱きしめたい気持ちを抑えて細く息を吐くとハボックに言った。 「…風邪を引きます。中へ入ってください」 「…ありがと…」 きちんと整頓された部屋の中へ通されてハボックはホッと息をつく。ベッドに腰掛けるとノーマンを見上げて言った。 「ずっと一緒の家にいたのに、ノーマンの部屋に入るの、初めてだね」 「当たり前です。ここは使用人の部屋ですよ」 ノーマンがそう言うのにハボックは眉を顰めた。 「ノーマンは家族だもの。使用人なんかじゃないよ。」 ハボックはそう言うとベッドにぽすんと横になった。枕に顔を埋めてくすりと笑う。 「ノーマンの匂いがする」 「すみません、カバーをとりかえ…」 「安心する」 そう言って目を閉じるハボックにノーマンは目を瞠った。 「ノーマン」 ハボックはベッドの側に立つノーマンに腕を伸ばした。引き寄せられるままにノーマンはハボックの隣りに滑り込むとそのほっそりとした体を抱え込んだ。 「側におりますから、お休みください」 ノーマンの言葉にハボックは頷いて目を閉じた。殆んど聞こえないような声で「ありがとう」と呟くとハボックは眠りに落ちていった。ノーマンはその幼い顔を見つめてため息をつく。なんて残酷な子供だろう。ただ一人の人しか求めていないくせに自分にも側にいろと言う。ノーマンはずっと気づかぬフリをしていた気持ちを目の前に突きつけられて、息をすることもままならなかった。 「ハボック様。私はまだやらなければならないことがありますから、どうぞ先にお休みください」 眠そうに欠伸をするハボックにノーマンはそう言った。だが、ハボックは緩く首を振るとソファーに座り込む。 「ノーマンの仕事が終わるまでここにいる」 そう言うとクッションを抱え込んでソファーに寝そべった。ノーマンは小さくため息をつくと、仕事をすませてしまうべくキッチンへと入っていく。30分ほどして戻ってくると、ハボックはクッションを抱いたままうとうとしていた。キスを誘うように薄く開いた唇に目が行って、ノーマンは慌てて首を振る。彼はロイのものだ。ロイはノーマンを信じてハボックを託していった。ロイを裏切るわけにはいかない。ノーマンはずっと昔、ロイが言った言葉をふと思い出していた。 『ノーマン、私は人間として欠けているんだ。だって、人を愛することが出来ない』 ハボックに会うずっと前、まだほんの子供だった彼はノーマンに言ったのだった。 『どうしてだろう。私は誰も、自分自身すら愛していないよ』 それは、ロイをとても大切に思っていたノーマンをも拒絶する残酷な言葉でもあった。そんなロイが初めて執着したのがハボックだった。手元に引き取り、大切に大切に育て上げた。ロイが望むままにハボックはロイだけを見つめて、多分これからもそれは変わらないのだろう。 ノーマンはため息をつくとハボックの体を抱え上げる。自分の部屋に連れて行くとベッドに横たえて、これくらいなら赦されるだろうとその額にそっとキスを落とした。 そうして互いに大切な想いを胸に秘めながら時間が過ぎていき、ロイが戦地に出てから2年が過ぎようとしていた。いつものようにリビングで新聞を広げたハボックは紙面に大きく書かれた文字に目を瞠った。新聞を握る手が震えるのにも気がつかず大声でノーマンを呼ぶ。キッチンで朝食の準備をしていたノーマンはハボックの声に慌てて、呼ばれた方へやってきた。 「どうなさいました?」 「ノーマン、戦争が終わる…停戦協定に調印したって…」 ハボックの言葉にノーマンは新聞を覗き込む。そこには大きな文字で「終戦」と書いてあった。 「帰ってくる…やっと中佐が帰ってくるんだ…」 嬉しそうにそう呟くハボックを、ノーマンは複雑な思いで見つめていた。 だが、ハボックが喜んだのもつかの間、終戦が告げられて2週間、3週間が過ぎてもロイは帰ってこなかった。最初の内こそ撤退に時間がかかっているのだろうなどと考える余裕もあったが、1ヵ月を過ぎる頃には流石に苛々と焦る気持ちを抑えられなかった。ノーマンは何度も軍に連絡を入れたが、「順次撤退中」との答えが返ってくるばかりで埒が明かなかった。心痛のあまり食事もろくに喉を通らないハボックを見ているのはノーマンには辛かった。抱きしめて慰めてあげたら少しはその痛みを取り去ってあげられるのだろうかと、ノーマンは思う。だが、触れたら最後、何処まで自分を抑えられるか自信がないのも事実だった。 2ヶ月が過ぎ、3ヶ月が過ぎたある風の強い日、ハボックは窓辺に寄りかかって風にしなる枝を見つめていた。随分と痩せてしまったその姿を見つめてノーマンは胸が詰まる。ハボックはそんなノーマンの気持ちになど気づきもせずに外を見つめながらポツリと呟いた。 「ねぇ、中佐は生きているのかな」 その言葉にノーマンは息を飲む。即座に否定しようとして、だが言葉が喉に詰まって出てこない。 「帰りたくても、もう帰ることの出来ない場所にいるとしたら、オレはどうしたらいいんだろう」 「マスタング様の部隊はきっと、一番奥深いところまで送り込まれたんですよ。だから撤収にも時間がかかっているのでしょう」 ノーマンは必死の思いでそう言うとハボックを見つめた。 「優しいね、ノーマンは」 ハボックはそう言うとノーマンに視線を向ける。その綺麗な空色の瞳に吸い込まれそうな気がして、ノーマンは瞳を閉じた。 「ノーマン、オレ、もうダメかもしれない」 ノーマンの耳にハボックが囁く声が届いて、ノーマンはハッと顔を上げた。窓に向けられた瞳はうっすらと水の膜が張って、今にも涙が零れ落ちそうだ。あまりに頼りなげなその姿に、ノーマンの心にある声が響いた。 『手折ってしまえばいい』 その声に、ノーマンは目を瞠る。確かに今ならほんの少し手を引けば、彼は自分の腕の中に倒れこんでくるだろう。 『手折ってしまえ』 『いつまでも帰ってこない奴が悪いんだ。もう、十分待ったろう?』 『手折ってしまえ』 『手折って…』 ノーマンの耳に響いていたのは、ずっとずっと押さえ込んできたハボックを想う心の声。その強い響きに抗えず、ノーマンはハボックへと一歩近づいた。ハボックがハッとしてノーマンに視線を向ける。その瞳に引き寄せられる様にノーマンは一歩一歩ハボックに近づいていった。伸ばしたノーマンの手がハボックに触れようとした、その時。 家の外で車が乱暴にブレーキを踏む音がした。その音に外を見たハボックの目が大きく見開かれて。次の瞬間、ハボックはノーマンの横をすり抜けると部屋の外へと駆け出していった。玄関の扉を開き、ハボックは家の外へと飛び出す。車から降り立った人物の顔を見た途端、ハボックはその胸に飛び込んでいた。 「うああああっっ」 意味を成さない言葉がハボックの唇から迸り、ハボックを受け止めた人物はハボックの体をしっかりと抱きしめた。その時、ハボックを追って玄関から出てきたノーマンの視線がハボックを受け止める人物を捉えた。ノーマンはすり抜けてしまった温もりを思って少し淋しげに微笑むと口を開く。 「お帰りなさいませ、マスタング様」 「ただいま、ノーマン」 ロイは小さく笑って答えると、しがみ付いて来るハボックの体をぎゅっと抱きしめた。 「ハボック、いい加減に少し離れて顔をよく見せてくれ」 そう言うロイにハボックはふるふると首を振るとますます強くしがみついた。 「ハボック様、そんなにしがみ付かずともマスタング様は何処へも行かれませんよ」 ノーマンが2人にお茶を出しながら苦笑する。だがハボックは、手を離したら最後、ロイが消えてしまうとでも言うように、ロイにしがみ付いて離れなかった。 「まったく、お茶も飲めないじゃないか」 困ったように、だが嬉しそうに笑ってロイはそう言った。しがみ付くハボックの金色の頭を飽きることなく撫でるロイの姿に、ノーマンは小さく息を吐いた。 「停戦協定が結ばれてからお戻りになるまで随分時間がかかりましたね」 ノーマンがそう言うと、ロイはハボックを見つめたまま答える。 「私の部隊は敵の一番懐奥深い所にいたからね。戻るのに時間がかかった」 「そうでしたか…」 ロイは視線をあげるとノーマンを真正面から見つめて口を開いた。 「ありがとう、ノーマン。お前にはいくら感謝してもしきれない」 まっすぐに射抜くような視線でそう言われてノーマンは苦く笑った。今、自分は試されているのだ。ロイが不在の間、ハボックにロイには告げられないような何かがなかったかどうか、ロイの視線はそう訊いている。自分の感謝の気持ちを踏みにじるような、そんなことはなかったなと、確かめられているのをノーマンは感じていた。 「私は自分に出来ることをしただけです」 そう言って頭を下げるノーマンにロイが満足げに頷くのを、視線を落としたままノーマンは感じていた。 |
→ chap.6 |