chap.4


「ノーマン!ノーマン!中佐がまた新聞に載ってるっ」
 ハボックは新聞を手にダイニングに駆け込んでくるとそう叫んだ。朝食の準備をしていたノーマンは、ハボックの勢いに苦笑して口を開く。
「ハボック様、そんなに叫ばなくても聞こえますよ」
「すごいね、イシュヴァールの部隊を殲滅したって。イシュヴァールの英雄だって」
 ハボックは新聞の1面に載っているロイの写真を愛しげに撫でた。
「この記事、切り取ってもいい?」
「勿論ですよ」
 ハボックはノーマンの言葉に「ありがとう」と叫ぶとダイニングを出て2階へと駆け上がっていく。寝室に入り鋏を取り出すと、丁寧に記事を切り取った。そうして、もう既に記事が山と張ってある寝室の壁に、今切り取った記事をピンで止めた。
「ちゅうさ…」
 ハボックはロイの写真にそっと唇を触れると指で輪郭を辿った。最後に会った時より少し痩せただろうか。
「声…ききたいな…」
 ロイが戦場に出てから1年が過ぎ、こうして新聞でその動向を垣間見ることは出来ても、ロイの声を聞くことはなかった。
『ハボック』
 目を瞑ってロイが呼ぶ声を思い起こす。記憶の中の声は甘いテノールで、その声を思い出すと、ハボックは体が甘く痺れるような気がした。ハボックはゆっくりと息を吐いてロイの写真を見つめた。粒子の粗いその写真のロイはどこか遠くを見つめていて。
(何処をみているんだろう…)
 隣りにたってその視線の目指す所を一緒に見つめられたらいい。そうなるまでに一体どれほどの月日を重ねればいいのだろうか。ハボックがそんなことを考えていると扉を軽くノックする音が聞こえた。
「ハボック様、朝食の準備が出来ておりますよ」
「ありがとう」
 ハボックは答えてもう一度写真に触れると扉を開けて部屋を出た。

 シャワーを浴びたハボックはぽすんとベッドに腰を下ろした。歴史や語学や用兵学、科学やら体術やらその他諸々の「習い事」の時間割が毎日規則正しく組まれていて、ハボックはいつかロイの隣りに立つことだけを考えて、来る日も来る日も組まれたスケジュールをこなしていった。それはハボックがロイに引き取られてからずっと続いていて、ハボック自身それを疑問に思ったことはなかった。ただ今は。
「ん…」
 灯りを落とした薄暗い部屋の中、ハボックは自分の中心に手を這わせる。ハボックはあの日ロイが自分にしたことを丁寧に辿っていった。
『淋しくなったら思い出してしてごらん…』
 記憶の中のロイが言うとおりにハボックは自分を追い上げていく。手で擦り上げ先端を弄り、袋を揉みしだいて、ハボックの唇から零れる吐息が次第に激しさを増していって。
「あっ…あんっ…はあっ…ちゅ、うさっ」
 びくびくと体を震わせてハボックは自分の手の中に熱を吐き出した。はあはあと息を弾ませながらハボックは自分が吐き出したものをぼんやりと見つめた。
「…うそつき…」
 確かにロイを思いながら行為に没頭している時は淋しさを忘れていられる。だが、我を取り戻した時は逆にロイの不在が色濃く感じられて辛さが増すばかりだった。
「いつまでこうしていたらいいんだろう…」
 毎日こなすスケジュールがどれだけ自分をロイに近づけているのだろうとハボックは思う。それしか方法がないと判っていても、あまりに長い道のりに、自分を導いてくれる手が近くにない今、ハボックは進むべき道を見失いそうになっていた。

「ロイ」
 ロイに宛がわれた天幕の垂れ幕をあげてヒューズが入ってくる。隅のほうに蹲るように座っていたロイがうっすらと目を開けてヒューズを見た。
「なにか用か?」
 冷たく見つめてくる黒い瞳にヒューズはこっそりとため息をついた。
「いや…疲れてるんじゃないかと思ってな」
「疲れてるのはお互い様だろう?」
 ふっと笑ってそう言うロイにヒューズは苦笑した。お互い様などということはありえないとヒューズは思う。国家錬金術師という名の下、ロイは常に最前線に送り込まれた。その圧倒的な力で、確かに彼はいつでも上層部の望む以上の成果を上げてはいた。だが。
 その結果を得る為に彼が払っている犠牲を誰が考えているだろう。ロイは機械ではないのだ。その力でもって大勢の人間を死に至らしめる事に彼の中の何かが犠牲になっていると、どうして誰も考えようとしないのだろうか。
「第8部隊のヤツにリタイア組が出たってさ」
 ヒューズがそう言うとロイは短く「そうか」と呟いた。そんなロイを見つめて、ヒューズは思わず聞いてしまう。
「大丈夫か?」
 その問いにロイは軽く目を瞠った後、薄く笑って言った。
「帰ると約束した」
「ロイ…」
「必ず帰ると。だからどんな手段を使っても生きて帰る」
 そう言って浮かべたロイの笑みは、まるでここが戦場であることを忘れてしまうような優しい笑みだった。ヒューズはロイのそんな顔に緩く首を振って答える。
「そうだったな」
 ロイが偶然引き取る事になった少年。彼の存在だけが今、ロイを正気に繋ぎとめている。ヒューズはロイのもとにあの少年を寄越してくれた運命にほんの少しだけ感謝した。

「おやすみ、ノーマン」
「お休みなさいませ、ハボック様」
 ハボックはそう言って2階へと上がっていった。自分の寝室に入り灯りも点けずに窓辺に近寄る。ぼんやりと銀色に輝く月を見ていたハボックだったが、ふと窓を開けると目の前に伸びる枝に手を伸ばした。
「あ…」
 届かないと思った枝に手が届いて、ハボックは一瞬躊躇したが、次の瞬間窓枠に脚をかけると外へと身を乗り出した。ぐいと腕に力を込めて自分の体を太い枝の上へと引き上げた。なんとか窓から木の上に身を移すとハボックは慎重に下へと下りていく。とん、と地面に下り立つとちらりと窓を見上げて、そのまま静かに庭を駆け抜けた。音がしないように門扉を細く開けると、ハボックは外へと抜け出していった。

 月に照らされた道をハボックは歩いていた。暗闇に沈んで先の見えない道は自分が進む道そのもののような気がする。
(ちゅうさ…)
 その力強い手で、揺るぎない瞳で自分を導いて欲しいとハボックは思う。ロイを求めて飢えた心で、ハボックはあてどもなく歩き続けた。やがて、周囲が次第に賑やかになって行き、辺りにネオンが増えていく。まだ眠るつもりのない街を沢山の人が歩くその中を、ハボックは彷徨うように歩いていた。どこに行ってよいか判らず、ハボックは店の壁に寄りかかると目を閉じた。なにも考えずに外へ出てきてしまった。こんな所にロイがいるわけないと判っているのにあのまま家にいることが我慢ならなかった。だが、そんなハボックの脳裏にロイの声が蘇る。
『裏切るな』
 あの日、誘われるままに外へ出てしまった自分に告げられた言葉。ハボックはその時のロイの目を思い出してぶるりと身を震わせた。
「帰らなくっちゃ…」
 そう呟いてハボックが来た道を引き返そうとしたその時。
「一人か?」
 ぐいと腕を掴まれて思わず顔を上げた視線の先に捉えた顔にハボックは目を見開いた。黒い髪、黒い瞳のその男はどこかしらロイに似ているような気がして、ハボックは身動きが出来ずに凍りつく。男はハボックの顎をぐいと掴むとハボックの顔を覗き込んだ。
「可愛い顔してるじゃないか。一人なら付き合えよ」
 そう言ってぐいぐいと腕を引いて歩き出す相手に、ハボックはよろよろとついていってしまった。近くの店の扉を開けると男はハボックを連れて中へと入った。奥まったブースにハボックを押し込むとその隣りに腰をおろし、店主に向かって手を上げた。店主は頷くと二人分の酒を持ってすぐにやってくる。グラスをテーブルに置いた店主が行ってしまうと男はハボックの肩に手を回して話しかけてきた。
「見ない顔だな。名前、なんて言うんだ?」
 ハボックは答えられずに俯いた。男はさして気にした風も無くハボックの前にグラスを差し出す。
「ま、いいさ。せっかく会ったんだ、楽しもうぜ」
 ぐいと肩を引き寄せられてハボックはゾクリと身を震わせた。なんでロイに似ているなどと思ったのだろう。まるで似ても似つかないというのに。ハボックは男の体を押し返すと言った。
「オレ、帰らないと…」
「何、言ってるんだよ、入ったばかりだろう。遠慮するなよ」
 男はそう言うと酒を口に含んだ。ハッとするハボックの体を椅子に押し付けると強引に唇を合わせてきた。
「っ?!」
 口移しに流し込まれる液体がハボックの喉を熱く焼いて、体へと染み渡っていく。その手がハボックの中心を布越しに撫で上げ、そのおぞましさにハボックはびくりと体を震わせた。
「いやっっ」
「ここまでついて来ておいて、今更『いや』はないだろうっ」
 ハボックを椅子に押し付けて圧し掛かってくる男にハボックは恐怖に駆られて大声で叫んだ。
「いやっっ!!だれかっ!…ちゅうさっ!!ちゅうさっっ、助けてっっ!!」
 圧倒的な力の差に抵抗することも出来ずに押さえ込まれてハボックが助けを求めた時、誰かが男の襟首を掴んでハボックから引き剥がした。
「やめて貰いましょうか」
 冷たい声音にハボックが恐る恐る目を開けると、ノーマンが男を突き飛ばす所だった。ノーマンは椅子に倒れこんだハボックの腕を掴んで引き起こすと、何も言わずにハボックの腕を引いて歩き出す。店の扉を抜けて、賑わう街を通りノーマンに連れられてハボックは家へと戻ってきた。ノーマンは家の中へ入るとハボックをソファーに座らせる。キッチンへと入り、冷たい水を入れたグラスを持ってくるとハボックに差し出した。ハボックはグラスを受け取ると冷たい水を喉に流し込む。暫くノーマンは何も言わずにハボックを見下ろしていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「どうして外へ?」
「…中佐に会いたくて…」
「マスタング様に?」
 ハボックの言葉にノーマンは眉を吊り上げて聞き返した。
「私が気がつかなかったらどうなっていたと思っているんです?」
 怒りを含んだノーマンの声にハボックの瞳からぽろぽろと涙が溢れ出す。ハボックは自分の体をかき抱くと嗚咽を零した。
「いつになったら中佐の所に行けるの…?」
「ハボック様…」
「どうしてオレ、子供なんだろう。いつまでたっても、どんなに頑張っても、中佐に追いつけない…っ」
「ハボック様」
「中佐がずっと帰ってこないのだって、きっともう、オレのことなんてどうでもいいと思ってるから…っ」
「いい加減になさいませっ!」
 ハボックの言葉にノーマンが声を荒げる。初めて聞いたノーマンの怒鳴り声にハボックは目を瞠った。
「マスタング様がどれほど貴方のことを大切に思っていたかお判りにならないのですか?マスタング様は今戦地に行っておいでです。恐らくは彼の地で貴方のことだけを、貴方のところに帰る事だけを考えておられるはずです。 ハボック様。貴方は今、貴方に出来ることをなさるべきです。それが今日なさったようなことでない事だけは、よく判っておいででしょう?」
 ノーマンの言葉にハボックは両手で口元を押さえて泣きじゃくった。
「ノーマン…ノーマン…っ」
 ノーマンはハボックの体をそっと抱きしめる。宥めるようにノーマンは腕の中のハボックの背をなで続けた。


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