心の奥深くに眠る君へ  第三章


 ガチャリと開けられた扉をくぐってハボックは家の中へ入っていく。視線をあげてぐるりと見渡した室内はだが、記憶にあるのかどうか、定かではなかった。
「オレ、ここでアンタと一緒に…?」
「ああ」
 ロイは短く答えてハボックをソファーに座らせるとキッチンへと入っていった。コーヒーを淹れようとして豆の入った缶を取り出したロイの手から伸びてきた手が缶を奪い取っていったことに、驚いてロイは顔を上げる。
「オレが淹れますから」
「だが、疲れたろう?」
 そう言えばハボックはふるふると首を振った。慣れた手つきでコーヒーをセットするハボックを見つめて、ロイは口を開く。
「少し休んだら夕食を食べに出かけよう。それとも、何かデリバリーでも頼もうか」
 ロイにそう言われてハボックはコーヒーを淹れる手を止めてキッチンの中を見渡す。それからふぅと息を吐くとロイを見ずに言った。
「あの、オレが作っちゃ拙いっスか?」
「お前が?」
 驚いたような声を上げるロイを上目遣いに見つめると答える。
「だって、ここのキッチン立派だし、オレ、自分のことは覚えてないけど料理は作れそうな気がするっス」
 ハボックは何も言わずに自分を見つめてくるロイに困ったように首を傾げた。
「…やっぱ、ダメっスよね?」
 しょんぼりしたような声にロイはハッとして答える。
「いや、お前がいいと言うなら私は大歓迎だ」
 そう言われてホッとしたように微笑むハボックをロイは眩しそうに見つめた。

 夕方の市場を並んで歩きながらハボックは次々と食材を買っていく。その姿を見ているだけならとても今、ハボックの記憶がないなどとは思えなかった。ただ。
「ハボックさん、今日は魚のいいのが入ってるよ!」
「やあ、最近来なかったね、出張にでも行ってたのかい、ハボックさん」
 行きつけの店から声を掛けられるたび困ったような笑いを浮かべることで、やはりハボックがいつもの彼ではないのだと、ロイに知らしめる。その困った様な傷ついたような横顔を見ているうち、ロイは堪らなくなってハボックの腕を引いた。驚いたように振り向く空色の瞳にロイは言う。
「もういい、これだけ買えば十分だろう。家に戻ろう」
 そう言われてほんの少し安心したように力の抜けた体を引き寄せて、ロイは足早に家への道を辿っていった。

「大丈夫か?少し休んでからの方が…」
「平気っス。嫌じゃなかったらこれでも飲んで座っててください」
 そう言って差し出される酒にロイは僅かに目を瞠る。それは、ハボックがよく食前酒としてロイに薦めていたものだった。ロイはフッと笑うと差し出されたそれを受け取って答えた。
「それじゃあお言葉に甘えてそうさせてもらうよ」
 ロイの答えににっこりと微笑んで、ハボックは食事の支度を始めたのだった。

「なんか、久しぶりだったから上手く出来たか自信ないんスけど…」
 そう言ってハボックがテーブルに並べたのは鶏肉のグレープフルーツソース煮とシーザーサラダ、オニオンコンソメスープにロイのお気に入りのパン屋の焼きたてパンだった。おいしそうな湯気をたてるそれらを前に向かい合わせに席につくと、ロイは勧められるままに手をつけた。ナイフで切り分けて口に運んだそれが以前食べたものと寸分変わらぬ味である事に、ロイは目を見開いた。
「口に合わないっスか?」
 黙ったまま食べる手を止めてしまったロイにハボックが不安そうに聞く。
「いや、そうじゃない。とても美味しいよ、ハボック」
 慌ててロイがそう答えればハボックが嬉しそうに笑った。
「よかった。甘めの方が好きな気がしてちょっと甘めに作ったんです」
 そう言って照れくさそうに笑うハボックの顔に以前のハボックの姿が重なる。
『アンタ、レシピより甘めに作った方が好きっスよね』
 いつかハボックが言った言葉が脳裏に浮んでロイは唇を噛み締めた。
「…たいさ?」
「…なんでもない」
 心配そうな顔をするハボックに微笑むと、ロイは食事を続けた。

「抜糸は済んだとはいえ、護衛官としての仕事をさせるのはどうしたものでしょうか」
「記憶はなくても軍人としての能力が消えたわけじゃないだろう」
 心配そうに聞いてくるホークアイにロイが答える。退院して数日は家で休んでいたハボックだったが、家にいたところで症状がよくなるわけでもなく、体自体は元気だったので仕事にでてきているのだ。もっとも、内容を判断しなければならない書類仕事は仕事の内容自体をさっぱり覚えていないため、やることと言ったら雑務と後は小隊の訓練くらいだ。部下達のことは記憶にないが、それでも年かさの軍曹に支えられて訓練をこなしていっていた。
「それに、むしろいつもどおりにしていた方が記憶を取り戻す役にたつと思うが」
 ホークアイにはそういうロイの言葉が半分は本音、後の半分は言い訳だと気がついていた。ロイはほんの僅かな間でもハボックを自分の目の届かない所へはやりたくないのだ。普段のハボックであればロイもそんなことは思いはしないだろう。任務の為に飛び出して行くハボックを、心配する気持ちはあれ指揮官として信頼し送り出している。だが、記憶の無いハボックを手元から放してしまって、もし戻ってこなかったらと不安なのだ。
 ホークアイは小さくため息をつくとロイを見つめて言う。
「ハボック少尉の軍人としての能力はよく判っておりますけれど、でも」
 くれぐれも気をつけてください、と言うホークアイの鳶色の瞳を見つめて、ロイは薄っすらと笑って頷いた。

「ハボック、車を止めてくれ」
 車で街を視察していたロイからそう声を掛けられて、ハボックは慌ててブレーキを踏む。口を開く間もなくさっさと車を降りてしまったロイの後を小走りに追いかければ、ロイは可愛らしい内装の洋菓子店に入っていってしまった。
「ケ、ケーキ屋?」
 看板を見上げて目をパチクリとさせ、たっぷり30秒は迷ってから店内へと入れば、甘いお菓子の香りがハボックを包んだ。店内を見渡せば、ロイはショーケースの前で店員に注文をしている。
「大佐っ、いいんスか?勤務中なのに」
 ハボックがそう言えば売り子の可愛い女の子がくすりと笑った。
「いやだわ、ハボックさん。うちのお得意さんとらないでね」
 そう言われてハボックはまじまじとロイを見つめる。
「いつものことなんスね…?」
「お前だっていつも一緒に食ってるだろうが」
 そこのテラスで、と言うロイにハボックが目を見開いた。
「えっ、マジ?!」
 そんな不真面目な、とぶつぶつと呟くハボックの横顔を、ロイはじっと見つめていたが店員からお菓子の包みを受け取るとハボックに声を掛ける。
「いくぞ、ハボック」
「あ、はいっ」
 慌てて追いかけてくるハボックを連れて車に戻りながらロイは袋の中に手を突っ込むとチョコ菓子をひとつ摘んで口に放り込んだ。
「お前も食うか?」
「や、オレは甘いもんはいいっス」
 そう答えるハボックにロイは面白そうに言う。
「記憶はなくても好みは変わらないんだな」
「え?」
「私の為にケーキを焼いたりしてくれるくせに、おまえ自身は甘いものは苦手だった」
 そう言って歩くロイの横顔を見下ろしてハボックは目を瞬かせた。
(オレ、大佐にケーキ焼いてあげたりしてたんだ…)
 記憶をなくす前の自分はいったいどういう風に暮らしていたのだろう。
(なんで大佐と2人で暮らしてたんだろう。それに…)
 時折自分を見つめるロイの視線の意味はなんなのだろう。ハボックはどうしても開かぬ記憶の扉に、小さく頭を振ると、目の前の車のドアをロイの為にあけてやったのだった。


→ 第四章