野良犬の純情  前編


ムカツク。
何がムカツクってあの人の態度が。
人の気も知らないで無邪気な顔してじゃれてくんじゃねぇよ。
猫みたいに瞳輝かせて、オレのこと信頼しきった目で見上げて。
いつまでもオレがアンタの従順な飼い犬でいるなんて、どうしてそんな風に思えるんだ。
あんまり油断してると、いつかアンタの喉笛に喰らいつくかもしれないとは思わないのか。
そんな衝動を一体どれほど苦労してオレがねじ伏せているか、アンタ、考えたことあるのかよ。

誰にも懐かない野良犬だったオレを拾って側においたのはあの人だった。初めて会ったときは噂から想像していた
姿かたちとはまるで思いもつかないほっそりした姿に、これがあの焔の錬金術師なのかと疑ったものだ。だが、
本当の強さっていうのが見かけのものとは関係ないのだと気づかされるのに、そう時間はかからなかった。
強靭な力、強靭な魂。気がつけばどうにもならない程あの人に囚われて。
男に興味を持ったことなんてなかった。軍隊ってのはどうしても女の比率が少ないからソッチに走るヤツがいるって
いうのは知ってたし、他人の嗜好をどうこう言うつもりもない。ただ自分は絶対に女の方がいいと思っていたし、実際
胸の大きい女や綺麗な女とヤルのは楽しくて、いい息抜きだった。特定の彼女はいなくてもセフレなら困らない程度
にはいたし、本当のことを言えば一人の女に決めるより複数のセフレと適当にヤっていた方がずっと気楽だと思って
いた。それなのに。
気がつけば考えているのはあの黒髪の上司のことばかり。艶やかな髪に、桜色の唇に、触れてみたくて似たような
女を抱いてみたけど、味気ないだけだった。オレが欲しいのはまがい物じゃなくて本物だけだ。側にいる程欲しくて
欲しくて、おかげで女が抱けなくなった。でも、まさか上司を押し倒すわけにもいかず、といって健康な男である以上
そういう欲求があるのは当然のことで。まさかこの年になって自分で処理する事になるなんて考えてもみなかった。
しかもおかずが男だなんて。サイテーだ。どうしてくれるんだ。もういい加減自分の中でうずまく想いを適当に処理
するなんてできなくなってきてる。このままじゃいつかきっと、どうにもならなくなる、そんなこと、判りきっているのに。

「ハボック。」
今日もまたあの人がオレを呼ぶ。桜色の唇が甘いテノールを紡ぎ、漆黒の瞳がオレを見る。
「なんスか?」
殊更なんでもないように答えれば、オレの前に書類を突き出した。
「間違ってるぞ、ココ。」
オレの前に書類を差し出し説明しようと体を寄せてくる。男にしてはほっそりした指が紙面を叩くのを見て、あの指に
しゃぶりつきたいと思った。
「聞いてるのか、ハボック。」
「聞いてますよ、勿論。」
好きな相手の髪が自分の鼻先を掠めるところにあって、どうして話なんて聞けるって言うんだ。ひとつもきいていない
に決まってるだろう。
「じゃあ、直したら持ってきてくれ。」
そう言って執務室に入っていく背中を見送って、オレはどこを直せばいいのか、確認しようとブレダを捜した。

今夜は珍しく、皆で飲みに行こうという事になった。丁度大きな事件が片付いて、誰もが開放的な気分になっていた。
みんなでワイワイ騒いで、楽しく過ごして、結構しこたま飲んだはずなのに、しかし、オレはちっとも酔えなかった。
楽しくなかったわけじゃない。仲間とバカを言い合って、上司にからかうような言葉を投げて、大声でしゃべって
大声で笑って。でも、楽しく振舞えば振舞うほど、オレの心は冷めていった。いや、違う。冷めていったわけじゃない。
あの人を想う心が全ての熱を奪ってしまって、そこだけは燃えるように熱くたぎっているのに、熱を奪われた他の
部分は氷みたいに冷たくなっているんだ。それでも皆の前でそうと覚らせないだけの分別も演技力もあったから、
誰も気づきはしなかったけれど。

「ハボック、お前ちゃんと大佐のこと送っていけよ。」
ブレダが真っ赤な顔をしてそう言う。
「判ってるよ、任せとけって。」
オレがそう答えれば、大佐が不服そうに言った。
「別に送ってもらわなくても一人で帰れる。」
「ダメっスよ。大佐を護衛もつけずに帰すわけにはいかないでしょ。」
オレはそう言うと、酔いにほんのり目元を染めた顔でオレを睨みつける大佐にコートを羽織らせた。そんな顔で
睨んだってちっとも迫力ないっての。つか、むしろオレを煽っているみたいにしか見えないんだけど。
「それじゃあ大佐、おやすみなさい。」
「お疲れ様でした、大佐。」
フュリーやファルマンがそれぞれ別れの挨拶を口にして帰っていく。それにひらひらと手を振って見送ると、オレは
大佐の背を押した。
「さ、帰りましょう。」
そう言えば、大佐は大人しくオレと一緒に歩き出した。街の喧騒を抜け、静かな住宅街に入り、細い月が照らす
道をゆっくりと歩いていく。時折思い出したように言葉を交わす時以外、オレも大佐も物思いに沈んでただ黙々
と歩き続けた。ふと横に目をやれば俺の肩辺りで艶やかな黒髪が柔らかに揺れる。白い肌が月の光に浮び
上がってとても綺麗だった。ずくん、と。腹の奥で血が騒ぐ。昼間は必死の思いで押さえ込んでいたものが、月の
光の中、強引に引きずり出されて。
「ハボック、コーヒーでも飲んでいかないか。」
大佐の声にハッとして顔を上げると、もう大佐の家の玄関が目の前だった。
「特に急いで帰らなければいけないわけでもないだろう?」
大佐はそう言いながら玄関の扉を開けるとオレに笑いかける。
ダメだ。今日はダメだ。今すぐに帰らないと。これ以上自分を抑える自信がない。そう思っているのに。
ふらふらと大佐について家の中に入ったオレの背後で、玄関の扉が閉まった。


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