黒き瞳の見つめる先を  第七章


「ハボック…」
もうもうと煙を上げる建物を見つめて、ロイは呆然と地面に座り込んでいた。
どうして銀時計を置いてきてしまったのだろう。
どうしてハボックを取りに行かせてしまったのだろう。
どうして。
自分の気持ちに向き合ってこなかったのだろう。
どうして。
ドウシテ。
「あ…あ…」
ロイの瞳から止めどなく涙が零れ落ちる。凄まじい喪失感がロイの体と心を支配する。ロイはただ涙を零しながら
力なく地面に座り込んでいた。

カツン。
何か硬いものが地面に当たる音がする。
コツン。
霞む目に地面に落ちて跳ね返ったコンクリの欠片が映った。
(…生きてる。)
何度か目をしばたたかせると霞んでいた視界が少しはっきりとした。ハボックは暫くぼんやりと時折降ってくる破片
を見つめていたが、地面に投げ出された自分の体を動かそうと試みた。途端に全身を痛みが貫き、ハボックは
小さく呻いた。細く息を吐き歯を食いしばると何とか地面に手の平をつく。ぐっと力を入れると走る痛みに目を瞑り、
体を起こした。
「はっ…はっ…」
胸を走る痛みに上手く呼吸をすることが出来ない。それでもハボックは腕を突くと必死の思いで立ち上がった。
「うっ…は…」
ぐらりとよろめく体を側の柱の残骸に手をつくことで漸う支える。霞む目を凝らして、ハボックは一歩を踏み出した。
そしてまた一歩。踏み出すごとに体を貫く痛みが、ともすれば薄れそうになる意識を引き戻していた。
「絶対…帰るんだ…」
ハボックはそう呟くと瓦礫の先に開いた光の出口に向かってゆっくりと歩いていった。

一体どれほどそうやって座り込んでいたのだろう。もう、流す涙も枯れてしまってロイはただ呆然と宙を見つめて
いた。最初の内はロイを危険の少ないところへ連れて行こうとしていた警備兵達も、建物を見つめたきり動こうと
しないロイに、どうすることも出来ずにどこかへ行ってしまっていた。回りを走り回る人々の声も足音も、ロイには
意味を成して届くことはなく、ロイのいるそこだけが時を止めてしまっているかのようだ。緩い風が吹いて崩れ
落ちた建物を撫ぜていく。その時、ロイがぼんやりと視線を投げるその先で、何かが建物の残骸をかき分けて
姿を現した。
ざり。
コンクリの欠片を踏みしめて一歩一歩歩いてくる埃と血にまみれたその姿は。
「…ハボック…ッ」
弾かれたように立ち上がってその人物に駆け寄ったロイは、崩れ落ちる背の高い体を抱きとめたのだった。

「まったく、お前、よく生きてるよな。」
「…それが九死に一生を得た友人に対する言葉かよ。」
ベッドに横たわったハボックは呆れたような声をあげるブレダを睨みあげた。
「だって、爆心地にいたんだろ?バケモンだな。」
「お前なぁ…っ」
ピクリと口の端を引きつらせてハボックがブレダを怒鳴りつけようとした時、軽いノックの音と共に病室の扉が
開いた。
「あ、大佐。」
振り返ったブレダにロイは片手を上げて答えるとベッドに近づいてきた。
「じゃ、俺は行くわ。」
ブレダはそう言うとロイに軽く頭を下げて病室を出て行く。そのブレダの背を見送ったロイはハボックを振り返る
と心配そうにハボックの顔を見た。
「どうだ、具合は?」
「あー、まぁ、まだあちこち痛ぇっスけどね。」
でもだいぶ良くなりましたよ、というハボックにロイは小さく笑った。
「…よく生きて戻ってくれたな。」
本当に嬉しそうに言うロイにハボックも笑う。
「あれで死んだらちょっとカッコつかないし。それに。」
アンタに余計な重荷背負わせたくないし、と言うハボックにロイは目を見開いた。
「アンタ、絶対自分を責めるでしょ。」
どんなに小さなことでもアンタを苦しめたくないんで、と笑うハボックにロイは泣きたい気持ちになった。
「ハボック、お前に言いたいことがあるんだ。」
そこで一呼吸おくとロイはハボックを見つめる。
「私はお前が――」
真剣な目をしてそう言うロイをハボックは押し留める。
「ダメっスよ。心が弱ってる時になんか考えるのはよくないです。」
そう言うハボックにロイは食ってかかった。
「別に心が弱ってなんか――」
「ダメです。今は何も聞きません。」
頑として聞こうとしないハボックに、ロイはむぅと唇を突き出す。
「いつならいいんだ。」
「怪我が治ったら。でもね、大佐。」
ハボックは浮かべていた笑みを消すと言った。
「アンタが気にすることなんて何もないんスよ。なんにもね。」
そう言って見つめてくる空色の瞳を、ロイはまっすぐに見返したのだった。

「すげー体、鈍ってるよ…」
訓練から戻ってきたハボックは、ドサリと椅子に座り込むとため息ながらに言う。そんなハボックを見るとブレダは
笑いながら言った。
「そりゃそうだろうよ。2ヵ月だろ?筋肉だって随分落ちたんじゃないか?」
「まぁ、腕とか動かせるようになったとこから動かしてはいたけどな。やっぱ脚?オレの脚じゃねぇみたい。」
細いんだもん、と嘆くハボックの脚を覗き見て、ブレダはそんだけありゃ十分だろうと思う。確かに以前のハボック
の脚は筋肉に包まれて細い女性のウエストくらいの太さがあった。それに比べれば細くなったと言えるかもしれ
ないが、ブレダから見ればやはりそれは随分と鍛えられたものとして目に映った。ブレダはハボックの脚から視線
をあげると、ふにゃと情けない表情を浮かべている友人を見つめる。満身創痍で病院に担ぎ込まれたハボックを
見たときは正直もうダメかと思っていた。体中の骨があちらこちら折れ、打撲と切り傷だらけで、生きているのが
不思議なくらいだった。軍人としてやっていくのは不可能なのではないかと誰もが思っていたにも係わらず、
ハボックは驚異的な回復を見せ、リハビリをこなして帰ってきた。
「ホント、お前、すごいよ。」
ブレダが感心したように言えばハボックはきょとんとして首を傾げる。
「ほんとバケモン。」
「ああっ?…んだ、ケンカ売ってんのか?」
ムッとして目を吊り上げるハボックにブレダは声を上げて笑った。

「大佐、車回しましたけど。」
夕焼けのオレンジ色の光が射しこむ執務室を覗きこんでハボックが言う。窓辺で外を眺めていたロイはハボックの
声に振り返ると言った。
「ハボック、今夜は何か予定があるのか?」
「や、特にないっスけど。」
「だったら私の家に来い。話がある。」
そう言うロイをハボックは困ったように見つめる。
「大佐、話ならここで。」
「大事な話なんだ。こんな所でしたくない。」
「大佐…。」
「怪我が治ったら話を聞くと言ったろう?」
「アンタが気にすることなんて何もないって言いましたよね?」
「逃げるのか?」
挑むように言うロイにハボックは絶句する。
「そんなの、赦さない。」
目を瞠るハボックにロイはキッパリと言った。


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