華降る夜の褥  前編

「大気の状態が不安定ですって、どうします?今日の夜桜」
 ハボックがラジオの天気予報に耳をそばだてながら言う。ロイはソファーの上で思い切り伸びをして言った。
「もう弁当の準備もしたんだろう?それに今夜行かなかったら全部散ってしまうんじゃないのか」
 確かに満開の桜はそろそろ少しずつ散り始めている。今夜を逃せばおそらく今年は花見はできずに終わるだろう。大気の状態が不安定で突風やら雷雨やらになるかもしれないと言うなら尚更だ。
「確かにそう言やそうっスよね。濡れたら急いで帰ってきて風呂入りゃいいんだし」
「そういうことだ」
 言ってロイは仰向けのまま本を広げる。わざわざ紙面を暗くして本を読むロイにハボックは顔を顰めて歩み寄った。
「そんな格好して本を読んだら目が悪くなるっしょ」
パッと本を取り上げられてロイは頬を膨らませる。ハボックは膨らんだ頬をぷにぷにと押して言った。
「そんな顔してもダメっス。読みたいならちゃんとして」
「……小うるさい奴だな」
 そう文句を言いながらもロイは身体を起こす。手を差し出せばすんなりと戻された本を膝の上に広げた。ハボックは素直に姿勢をただして本を読み始めるロイに優しく笑うと、その黒髪にキスを落とす。
「ハボック」
 ツイと顔を上げて唇を叩けば、ハボックがクスクスと笑ってチュッと口づけた。
「あと30分くらいで出られますから」
「うん」
 頷いて視線を本に戻すロイをそのままに、ハボックは夜桜見物の準備をする為にリビングを出ていった。

「意外とあったかいっスね」
 ゆっくりと公園の中を歩きながらハボックが言う。ロイは襟の詰まったコートの首元を手で扇ぎながら言った。
「お前が厚着させるから暑いくらいだ」
「……寒けりゃ寒いで文句言うくせに」
 ボソリと言うハボックの臑をロイは思い切り蹴りつける。いてぇッ、と蹲るハボックを置いてロイはスタスタと先に進むと大きな桜の下を指さした。
「あそこがいいんじゃないか?」
 ロイがそう言う先をハボックは臑をさすりながら見る。大きく枝を広げた桜の下は、小さな子供を連れた夫婦が一組陣取っている以外は誰の姿も見えなかった。
 ハボックは先客の親子に軽く会釈すると少し離れた場所にシートを広げる。大きなバッグの中からクッションやら弁当やらを取り出すと、下まで延びてきている枝の桜を間近に眺めているロイに声をかけた。
「大佐」
 そう言えばロイが桜を見上げながらゆっくりと歩いてくる。シートに胡座をかいて座っていたハボックが手を差し出せば、ロイはその手を取ってクッションに腰を下ろした。
「やっぱり来てよかったな」
 三日月の淡い光の中、薄桃色の桜はまるでそれ自体光を発しているようだ。はらり、はら、と舞い落ちてくる桜を見上げるロイをうっとりと見つめながらハボックが答えた。
「そうっスね」
 ハボックは広げた弁当の箱から肉やら野菜やらを皿に取り分けるとロイの前に置いてやる。それから小さな杯を取るとロイに手渡した。綺麗な空色のボトルをバッグから取り出して栓をあける。トクトクとロイが手にする杯に注げば深い香りが辺りに漂った。
「いい香りだな」
「ファルマンにもらったんス。ボトルの色が綺麗だから、大佐に見せたら喜びますよってね」
「なんだ、それは」
 確かに空色に透けるガラスのボトルはハボックの瞳の色に似て目を惹かれた。そんな自分の心を見透かすような言葉にロイはムッとして注がれた酒を一気に飲み干す。照れ隠しのようにズイと差し出せば、ハボックがクスリと笑って杯を満たした。
「飲み過ぎないでくださいね」
 明日は朝から会議だし、と言うハボックにロイはげんなりと肩を落とした。
「せっかく旨い酒を飲んでいるのに嫌なことを思い出させるな」
「すみません」
 素直に詫びるハボックが注いでくれた酒を、今度はゆっくりと味わう。そうすればはらりと舞い落ちた花びらが杯の中に浮かんだ。
「ハボック、ほら」
 ロイはそう言ってハボックの前に桜の浮かんだ杯を差し出す。小さな杯はボトルの色を移したようにうっすらと空色を帯びていて、その中に散った小さな桜色とのコントラストがとても綺麗だった。
「飲んでしまうのが勿体無いみたいだな」
 ロイは目を細めてそう言う。そう言った傍からクイと杯を干してしまうロイをハボックは呆れたように見た。
「風情を味わう気があるんだかないんだか判んないっスね、アンタ」
「お前に言われたくはないな」
 ロイがそう言って差し出す杯にハボックは更に酒を注ぐ。
「お前は飲まないのか?」
 そう聞かれてハボックは答えた。
「酔ったアンタを連れ帰る人間が必要っしょ?」
「歩けないほど酔うもんか。嫌なことに明日は一番で会議らしいからな」
 わざとらしくそう言うロイにハボックは笑う。
「それじゃあオレもいただきます」
 言ってハボックはバッグからもう一つ杯を取り出した。今度の杯はガラスに銀色の細かい破片が無数に散りばめてある。まるで月の滴で出来ているかのようなそれに、手酌で酒を注ごうとするハボックの手からボトルを取り上げると、ロイはハボックの杯を満たしてやった。
「せっかく二人で飲んでるんだから私にも注がせろ」
「…ありがとうございます」
 ハボックは笑って杯に口を付ける。そうやって静かに杯を傾け、ハボックの作った弁当を口にしながら桜を見上げてぽつりぽつりと言葉を交わした。それだけで不思議と満たされる二人の顔には自然と笑みが浮かぶ。はらり、はらと舞い散る桜を時折手のひらで受けながらのんびりと過ごしていたが、思い出したように時計を見たハボックが言った。
「大佐、もう結構な時間っスよ」
 言われて銀時計を開いたロイが答える。
「本当だ、そろそろお開きにするか」
「そっスね。天気もってよかった」
 ハボックがそう言ってあらかた食べ終えた弁当を片づけようとした時、突然ビュウと風が吹き抜ける。今までの穏やかな時間が嘘のようにざわざわと揺れだした枝に、二人は顔を見合わせた。
「早く帰った方が良さそうだ」
「ですね」
 頷きあって慌ただしく片づけていく。ふと見上げれば綺麗に咲き誇っていた桜が風に浚われて夜空一面に雪のように舞っていた。
「凄い……」
 思わず目を瞠って立ち尽くす二人の周りの世界が一瞬真っ白に光ったと思うと、ガラガラガラと大きな音が響きわたる。
「ウワッ」
 首を竦めたロイの頬にポツリと滴が落ちた。
「雨?」
「うそ、降ってきたッ!」
 ハボックは叫んで広げたものを片っ端からバッグに突っ込む。ジーッとチャックを締めたと同時に大粒の雨がバタバタとバッグの布地を叩いたかと思うとバケツをひっくり返したような雨が落ちてきた。
「大佐っ」
 ハボックが差し出した手にロイが自分のそれを重ねればグイと引っ張られる。片手にバッグを提げ、片手でロイの手を引いて、ハボックは公園の中を走り出した。
 バチャバチャとあっと言う間にたまった水たまりを跳ね上げて二人は走る。辺りは雨と舞い散る花びらで真っ白だった。
「大佐、あそこ!」
 ハボックは公園の中ほどに作られている小さな庵風の休憩所を指さす。二人は白く霞む公園を突っ切ると休憩所に飛び込んだ。ハアハアと息を弾ませていたのが落ち着くと漸く周りを見る余裕も出てくる。強風に煽られて吹き込んだのであろう、床一面に散らばる桜の花びらにハボックは目を見開いた。
「すげぇ…花びらの絨毯みたい……ねぇ、大佐」
 そう言ってロイを振り向いたハボックは、しとどに濡れたその姿に息を飲んだのだった。


→ 中編