| 近くて遠いあなた 第六章 |
| 「大佐、サインください」 ノックとほぼ同時に扉を開ければロイが驚いたように顔を上げる。まん丸に見開いた目を一つ瞬いて笑みを浮かべるとロイが言った。 「ノックをしたまえよ、少尉」 「したっスよ、いつもどおりに」 ハボックがそう答えればロイが苦笑してみせる。差し出してくる手に書類を渡すと、ハボックは書類に目を通すロイの長い睫を見つめた。 (警戒されてんのかな) 心構えがないと部屋に入ってこられるのも緊張するということだろうか。もしそうならたとえ人として褒められる行為ではないにしろあの事がロイの中に僅かでも痕を残せたという事だ。 (そんな訳、ないか) 自分に都合のよい解釈をしそうになった己をハボックが内心嘲笑った時、ふわりと鼻先を掠めた匂いにハボックは身を強張らせた。その匂いの元に目を向ければロイが珍しく上着を脱いだところだった。 一月前に腕の中に閉じ込めて忘れられなかった匂いにハボックは食い入るようにロイを見る。そんなハボックに気付かず、ロイは書類にサインをしたためると書類を手に取りハボックを見上げた。 「?…ハボック?」 自分をじっと見つめてくる空色の瞳にロイは不思議そうに首を傾げる。その声にハッと我に返ったハボックはロイの手から書類を奪い取るように受け取った。 「あ、りがとうございます…」 掠れた声でそう言えばロイが首を回して言う。 「ちょっと一息いれるか。ハボック、すまないがコーヒーを淹れてくれないか?」 「え?…あ、はい」 ハボックはそう答えるとそそくさと執務室を出た。サインを貰った書類を机の上に放り投げ給湯室に向かう。ロイの気に入りのコーヒーをセットすると滴り落ちる褐色の液体が醸し出す匂いにホッと息を吐いた。 少ししてコーヒーにミルクと砂糖をいれてロイ好みに味を整えると執務室へと戻る。今度はロイの返事を待ってから執務室へ入ればロイがコーヒーのよい香りに目を細めた。 「どうぞ」 「ありがとう」 そう言って微笑むロイに微かに胸がざわめいたものの、コーヒーの香りが宥めてくれる。 「それじゃ失礼します」 ハボックはそういうと、コーヒーの香りが消えてしまわないうちに執務室を出て行った。 「ハボ、お前、煙草変えた?」 そう聞いてくるブレダにハボックは書いていた書類から目を上げる。椅子の背に寄りかかって自らも煙草を吸いながら聞くブレダにハボックが答えた。 「変えたけど……判る?」 「ああ…つか、すっげぇきつい匂いだな、それ」 「そう?」 首を傾げるハボックに頷きつつブレダはハボックの口元に手を伸ばす。唇から煙草を奪うとひと口吸って眉を顰めた。 「きっつ!お前、よくこんなの吸えるな」 「そうか?ブレダだって結構きついの、吸ってんじゃん」 「いや、でもこれはかなり強烈。こんなの吸ってっと女の子に嫌われるぜ?」 そう言いながら煙草を返してくるブレダにハボックは笑う。 「はは、これをオレの匂いだって気に入ってくれるような子と付き合うさ」 「いるかぁ、そんな子」 半ば呆れたように言うブレダにハボックは笑って見せた。 「大佐、車の用意できてますけど」 「ああ、一本電話をかけるから待っててくれ」 扉から顔だけ覗かせてハボックが言えばロイが受話器を手にそう答える。ハボックは軽く頷くと透かした扉をすぐに閉めた。自席に戻ると最近銘柄を変えた煙草を取り出して火を点ける。ブレダに「キツイ」と言われたそれを深く吸い込むとゆっくりと吐き出した。 「べつに気に入ってくれる子なんていなくていいさ」 ボソリとそう呟いてハボックは天上に立ち上っていく煙を目で追いかける。ハボックにとってこの煙草は単にロイとの間に一線を引くためのものでしかなかったから、他の誰かにどう思われようとも別に構わなかった。諦めなければと思いながら未練たらしく心ざわつかせる自分を抑える為の小道具。どうしてもロイに向かってしまう意識を引き止める為の小道具だった。ゆらゆらと立ち昇る煙を見つめながらハボックは自嘲する。この煙草ですら抑えきれなくなったらどうするのだろう。 「そん時はクスリでも使うかなぁ」 半ば本気とも聞こえる声で呟くとハボックは昏く笑った。 「待たせたな、ハボック」 「いえ、もう済んだんスか?」 コートを手に執務室から出てきたロイにハボックが言う。ロイは薄く笑うと肩を竦めた。 「ぐちゃぐちゃと煩い事を言う輩が多くてうんざりするよ」 そう言ってため息をついてみせるロイにハボックが笑う。 「そんな事言って、デートのひとつもすりゃ忘れちゃうようなもんでしょ」 「ここのところ忙しくてデートもできんよ」 嘆いてみせるロイと並んで廊下を歩きながら、そんなセリフにすらホッとしながらも傷ついている自分にハボックは苦笑した。 玄関先につけてあった車にロイを乗せるとハボックはゆっくりと車をスタートさせる。もうすっかりと日の暮れた街を走らせていると不意にロイが言った。 「最近煙草を変えたんだな、ハボック」 「え?ああ、はい。ちょっと気分転換で」 「ヘビースモーカーだとは思っていたが、随分きつそうな煙草だな」 「ブレダにすらキツイって言われたっスよ」 軽く笑ってそう答えるとハボックはハンドルを切る。そのまま暫くの間言葉を交わさずにいたが、ロイが口を開くと言った。 「きつそうな煙草だとは思ったが、嗅ぎ慣れるといかにもお前らしい匂いに思えるから不思議なものだ」 「……え?」 「あまり嗅ぐ機会のない香りだしな。かえってお前の匂いと言えるんだろう」 そんな事を言うロイをハボックはミラー越しに食い入るように見る。ハボックはくしゃりと顔を歪めると呟いた。 「やっぱアンタって残酷な人っスね」 「え?何か言ったか?」 小声で呟いた声は車のエンジン音にかき消されてロイには届かない。ハボックは唇を噛み締めると縋るようにヘッドライトに照らし出された道を睨み続けた。 |
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