近くて遠いあなた  第一章


「アンタが好きなんです」
 誰も来ない資料室の片隅、薄っすらと埃の積もった書架の間、取ってくれと頼まれた古いファイルを手渡しながらハボックが言う。あまりに唐突な告白に、ロイは最初ハボックが何を言っているのか理解できなかった。
「すまん、何と言ったか判らなかったんだが」
「アンタが好きだって言ったんスよ」
 ファイルを受け取りながら言うロイにハボックが繰り返す。ロイは自分を見下ろす空色の瞳をまじまじと見つめて言った。
「…そういうことを言うには不適切な場所だと思わんか?」
「そうっスね。でも、アンタのいい匂い嗅いでたら我慢出来なくなっちゃって」
 言っちゃいました、と淡々と告げるハボックにロイは首を傾げる。
「それは本気で言っているのか?」
「当たり前でしょ。いくらオレでも冗談でこんな事言えないっス」
「私は男だぞ?」
「知ってます。男のクセに女よりずっと綺麗だってことも」
 ハボックはそう言うとロイの頬に手を伸ばす。その大きな手が触れる前にロイは一歩身を引くと言った。
「悪いが私はお前の気持ちに応えることは出来ない」
「どうして?オレが男だからっスか?」
 そう尋ねるハボックにロイは一度口を噤んで自分の中の気持ちを探る。それからハボックをまっすぐに見ると言った。
「いや、好きになったら相手が男だろうが女だろうがそれは本人の気持ち次第だと思うが、私はお前を部下としてしか見られない」
「告白されて“気になる存在”に格上げされる予定は?」
「残念だがないな。お前もブレダ少尉もファルマン准尉もフュリー曹長も…。ホークアイ中尉だって私には部下でしかない。もっともとびきりの部下だという点では特別といえるのかもしれないが」
「……そっスか…」
 ハボックは呟くように言うと俯く。その傷ついた表情にロイは一瞬罪悪感を覚えたが軽く髪を振ると言った。
「すまない、ハボック」
「…いえ、気持ちが悪いって燃やされなかっただけマシっスよ」
 顔に笑顔を貼り付けてそう答えるハボックにロイは曖昧に笑うとファイルを手に資料室を出て行った。


 カッカッと小気味よく響くロイの足音が遠ざかるのを聞きながらハボックは書架に背を預ける。目の前のファイルの背に書かれた文字を見るともなく見ながら震える息を吐き出した。
「言っちまった……」
 そう呟いて目を閉じる。ハボックはもうずっと前からロイのことが好きだった。ロイは上司で、東方司令部のナンバー2で国軍大佐の国家錬金術師。その上ロイと自分は同性だ。それだけ判っていても自分のロイへの気持ちが恋心である事を否定できなかったし、諦める事も出来なかった。口にすれば恐らく最後だと思ったから決して口にするまいと思っていたが。
「堪んなかったんだ…」
 車の中や執務室や、今までもロイと二人きりで息苦しいと思ったことは何度もあった。でも好きだと言える様な場所ではなかったから言わずにいられた。だが、滅多に人の来ない、人の目のないこの場所で匂いたつロイの香りが鼻を掠めた時、考える間もなく言葉が唇をスルリと零れ出てしまった。
「たいさ…」
 ハボックはそう呟いて目を開ける。ふと足元に目をやれば白いハンカチが落ちていて、上質なその隅に施されたR.Mの刺繍がそれがロイの物だと告げていた。ハボックはそれを拾い上げるとじっと見つめる。さっき嗅いだのと同じ匂いがハンカチから立ち込めてハボックはハンカチに恭しく口付けた。
「たいさ、すき……」
 そう囁いてハボックはハンカチをギュッと胸に抱き締めた。


 ファイルを抱えて司令室に戻ってきたロイは部下達の机が並ぶ大部屋を通り過ぎると奥の執務室へと向かう。扉を開けて中へ入るとフゥとひとつ息を吐いた。ファイルを立派な机の上に放り出すと窓から外を見る。雲ひとつない綺麗な空に、さっきまで一緒にいた部下の事を思い出して眉を寄せた。
『アンタが好きなんです』
 ハボックの言葉が頭に浮かんで、ロイは眉間の皺を深める。あんな事を言われて正直とても驚いた。普段ハボックはそういう素振りは全く見せなかったし、ボインが好きだと公言もしていた。士官学校に入ってからこっち、そういう対象として見られたことはあったが今、自分の周りにいる人間にそんな目で見られているなど思いもしなかったのに。
『アンタが好きだって言ったんスよ』
 そう言ったハボックの事を考えてロイは首を捻る。ハボックのことは嫌いじゃない。明るくサバサバとして一緒にいて気持ちのいい男だ。軍人としての腕も立つし信頼の置ける部下だと思う。だが、それ以上でもそれ以下でもない。
「仕方ない、か…」
 人の気持ちなどどうする事も出来ない。ハボックが自分を好きだと言うならそれは本当なのだろう。だからといって自分がハボックを好きになるかと言ったらそれはまた別の問題だ。少なくとも今の時点でハボックは優秀で信頼に足る部下だという以外にないのだ。
 ロイはひとつため息をつくと窓に背を向け椅子に腰掛ける。そうして机の上に放り出したファイルを広げるとすぐさまその内容に没頭していった。


「大佐、帰り、いつも通りっスか?」
 夕方、窓から差し込む陽射しがオレンジ色からだんだんと力をなくし明るさを失い始めた頃、ハボックが執務室の扉を叩いて言う。ロイは書いていた書類から顔を上げると答えた。
「いや、今日は約束があるんでな。悪いがレストランの方へ頼むよ」
「……デートっスか?いいっスね、モテる男は」
「そういうお前も結構モテるとフュリー曹長から聞いたぞ」
 そう言ってロイは笑うと書類を纏め始める。いそいそと帰り支度をしながらロイは言った。
「6時には出るつもりだ」
「…アイ・サー」
 ロイの言葉にハボックは答えて執務室を出て行く。机の上を整理し今日の仕事はおしまいとばかりに勢いよく抽斗を閉めるとロイは立ち上がってコートを手に取った。執務室の扉を開ければまだ仕事を広げた部下達がロイを見る。
「もう上がりですか、大佐」
 ブレダが咥えていた煙草を手に取るとそう言う。
「悪いが先に上がらせてもらうよ」
「悪いと思ってるなら俺達の仕事、手伝ってくださいよ、大佐」
 ちっとも悪びれた様子のないロイにブレダが顔を顰めて言うのにロイは軽く笑って返した。
「見せるべき相手がいる時の為にパフォーマンスは取っておいたほうがいいよ、少尉」
「それは今日は中尉がいないから帰っちゃっていいって事ですか?」
 そう聞かれてニヤニヤと笑うロイにブレダ達も笑って「お疲れさま」と声を掛ける。それに手を振って司令室を後にするとロイは廊下へと出た。足早に廊下を抜けて司令部の入口へと向かえば玄関先に車を止めてぼんやりと立っているハボックの姿が目に入った。
「ハボック」
 そう声を掛ければ金色の頭が揺れてロイの方へ向く。コートを抱えて短い階段を下りたロイの前で車の扉がタイミングよく開いた。自分の為に開けられた扉の中へロイは体を滑り込ませる。車の後部座席に体を納めると静かに扉が閉まり、少しして運転席側の扉が開くとハボックが乗り込んできた。
「出します」
 ハボックは短くそう告げるとゆっくりとアクセルを踏み込む。滑るように走り出した車は暮れ始めた街を駆け抜けていく。やがて目的のレストランの前につくと、再び自分の為に開かれた扉から外へと下りた。
「ご苦労だったな、ハボック」
「いえ……よい夜を、大佐」
「ああ、お前もな」
 ロイは笑ってそう答えると今夜のデートの相手が待つレストランへと入っていく。ハボックは車の横に立ちつくしたまま、ロイのまっすぐに伸びた背が店の中へ消えていくのをじっと見つめていた。


 司令部に車を戻すとハボックは自分のアパートへと向かう。秋も終わりに近づき、夜はぐっと冷え込むようになった。ハボックはぶるりと震えて上着の襟元を掴むと足早に通りを歩いていった。
 古い階段を3階まで上がると鍵を取り出し廊下の一番端の自室の扉を開ける。中へ入ると鍵を掛け、リビング兼ダイニングに入ると暖房のスイッチを入れた。その上で上着を脱ぎ、キッチンで手を洗うと冷蔵庫の中を覗き込む。数日前にたくさん作っておいたシチューを鍋に取り分けると牛乳を足して温め、パンと一緒にダイニングへと持ってきた。椅子に腰掛け誰にともなく「いただきます」と呟くとスプーンですくって食べ始める。パンを千切って口に放り込みながらぼんやりとロイのことを思った。
「今頃美味いもんでも喰ってんだろうな……」
 そう呟くと少し硬くなっていたパンをシチューに浸す。スプーンでぐちゃぐちゃとかき混ぜながらため息をついた。
 「好きだ」と告げた後もロイの態度は変わらなかった。男なのに気持ち悪いとあからさまに避けられなかっただけマシだが、それは逆にロイが自分の事など何とも思っていないことを物語っていて、ハボックの心を傷つけた。
「別に期待してたわけじゃないけど……」
 それでもまるで変わらぬ態度に自分の想いなどロイの心をいくらも震わせることも出来ない取るに足らないものだと思えてハボックは唇を震わせる。
「チキショウ…、ちょっとくらい動揺してくれたっていいじゃん」
 ハボックは呻くように言うとポケットに手を突っ込んだ。中から白いハンカチを取り出すと床に投げ捨てようとして、結局出来ずにそのままギュッと握り締める。
「チキショウ……」
 ハンカチを握り締めた手を額に押し当てて、ハボックはただロイのことを思い続けた。


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