MEMORY 3
〜菫青石の恋〜

亮水瀬


 寝不足でぼうっとした頭のまま、カーティスは上官を迎えにプラットホームに立っていた。ロイはホークアイを伴って三日ほど大総統府に出掛けており、そう言えばあのとんでもないキスの後、まともに上官と顔を合わせるのはこれが初めてだと気付く。確か一度、司令室で擦れ違ったきりだ。
「………っ」
 ロイの顔を見た途端、とんでもない事を口走ってしまいそうで、カーティスは唇を噛みしめた。
『お前、ベアルファレスって娼館の売れっ子だったろうが。男に脚開いて大金稼いでた奴が、そうそう他の仕事に就けるもんか』
 酒場で見知らぬ男に投げつけられた言葉がぐるぐると胸に渦を巻く。ブレダ少尉の話が本当なら、その男娼が、選りにもよって彼の上官の『恋人』だったのだという。
“…だ、男娼って……そんな…っ”
 ロイの想い人が同性だっただけでもショックなのに、その上男の身で男に身体を売って金を稼いでいたなどと、とても信じられなかった。もし本当だとしたら、許せない。
“大佐も、そいつの身体に溺れてずるずる関係を続けてたって事なのか?…”
 ぶる、と震えて、彼は無意識に肩を抱き締めた。不意にあの夜のきつい抱擁と嵐のような口付けが蘇ってきて、かっと頬が火照る。
 間違えたと、上官は自分に謝った。間違えた ─── そう、その男娼にだ。
 どうしようもない嫌悪感と屈辱感に襲われて、カーティスは喘いだ。自分とよく似たその男に対する憎しみにも似た醜い感情に振り回される。
“………穢らわしいっ”
 無意識にごしごしと唇を手の甲で強く擦って、彼は頭を振った。
 その時。ピーと高い汽笛が鳴って、ホームに列車の到着が告げられた。



 司令部に向かう車の中は、ひどく気まずい沈黙で満たされていた。
 列車を降り、顔を合わせるなりぶっきらぼうに敬礼だけを返してそっぽを向いた部下に、ロイは僅かに目を細めたが何も言わなかった。
 カーティスの態度の理由は、一昨日のブレダの電話で知っていた。彼が若者らしい潔癖さで自分の事を怒っているのも、ハボックに対して嫌悪感を抱いているらしいのも承知している。だが今ここで、言い訳しようとは思わなかった。誰に何と謗られ非難されようとも自分がハボックを愛した事は事実で、そうして彼だけが自分の傷付いた魂を救ってくれたのだから。
「カーティス准尉」
 たまりかねたホークアイが、後部座席から声を掛ける。
「何ですか、中尉」
 棒読みのようなその声に、彼女は溜息を付く。
「大佐、ちょっと所用を思い出しました。申し訳ありませんが、先に司令部に戻って頂けませんか? 小一時間で追い付きます」
「構わんが」
「准尉、次の角で下ろして頂戴」
「イエス、マァム」
 そうして二人っきりの車は、ますます重い空気で満たされて息苦しくなってしまった。
 先に沈黙に耐え切れなくなったのは、若い准尉の方だ。
「俺、ハボックって人に、そんなに似てますか?」
「 ─── 」
 ロイはふうっとひとつ深いため息を吐くと、ゆっくりと視線を前に移した。ミラー越しに、青い瞳がこちらを睨んでいる。
「似てはおらんよ。少なくとも、私はそう思ったことは一度もない」
「……でもっ」
「お前が髪を切った後、皆の態度が多少変わっても私がそれに驚いた事があったか?」
「………いいえ。」
 確かにロイは、彼をその男と見間違えたりはしなかった。ただあのひどく酔った夜に、一度口付けされただけで。
「酔ってお前にキスしてしまった事は謝る。丁度昔の夢を見ていてな ─── 目を開けたら金髪と青い瞳が映って、夢の続きだと思ってしまったんだ」
 胸が痛くなるほど、幸せな夢だった。あの宝石のような時間をもう一度取り戻せるなら、自分はどんな事でもするだろうに ─── だが一度失ってしまった命は、決して蘇らない。無理に呼び戻そうとすれば、彼は自分を叱るだろう ─── ロイの罪を、代わりに嘆くだろう ─── そういう人間だった。
「みんな似てるって言うけど、大佐だけは言いませんでしたね」
「多少見た目が似ている人間なら、いくらでも見つけられるさ。例えばお前、自分の大切な相手の兄弟と、その相手を見間違えたりするか?……血が繋がっていれば当然見た目は似てくるだろうが、だからと言って間違って抱き締めたりはしないだろう?」
「 ─── 」
 確かにその通りだった。
「それにお前とハボックは、全く似ていないよ」
 散々似ていると揶揄され続けた男に『似ていない』と断言され、なぜだかひどく胸が痛んだ。彼にとってはジャン・ハボックだけが唯一で、自分は全く歯牙にも掛からない存在なのだと宣告されたような気がしたからだ。
「カーティス、お前は両親が好きか?」
「……はい?」
「家にいて、幸せだったか?」
「……そうっスね。下に年の離れた妹がいますけど俺は長いこと一人っ子で、かなり甘やかされて育った自覚はあります。軍に入りたいって言った時は、お袋にずいぶん泣かれました。軍人目指すならせめて士官学校に入ってきちん一から勉強しろって親父に怒鳴られて ─── そのまんま寮に叩き込まれましたけど」
 親は子供を無条件で愛するものだ。それはどんなに貧しい家庭であろうと学のない地域であろうと変わらないもので、だからこそ生まれ育った家をあっさり捨てて外に飛び出せるのだとカーティスはずっと思ってきた。だがそれが、全ての家庭に当て嵌まるわけではない事を、彼は知らない。
「…ああ、愛されてるな」
 そっと襟足に伸びたロイの手が、金髪を柔らかく梳く。
「たい、さ…?」
 アクセルを踏み込む足が緩んで、エンジンブレーキが掛かった車はがくんとスピードを落とした。
「お前は『家の中にいる事を許された子供』だ、カーティス。ハボックがどんなにそう望んでも手に入れられなかったものを、生まれながらに持っている ─── まぶしい金の子供だよ」
「何スか? それっ…」
 ひどく切なげなロイの声音が気に触って、彼は今度こそブレーキを踏み込んだ。耳障りな音がして、車が止まる。
「……ハボックって人が、親に金で売られてそういう商売してたから、仕方ないって意味ッスか?」
 そんな身の上話など、それこそ吐いて捨てるほどある筈だった。だからと言って、躯をひさぐ商売に身を落した者に一時の同情を寄せこそすれ、国軍大佐の身で色に溺れるなど許せない。
「恋人が男娼だったなんて、穢らわしくないんっスか?! それとも、あっちの具合が良くて通ってるうちに手放せなくなったとでも?」
「…黙れ、准尉」
 後部座席の上官が低く呻く。
「……どうせそんな奴、そのうち別の男咥え込んで、大佐裏切っちまったんでしょう? は! あんた、捨てられたんだ!…だって今も恋人だったら、仲良く一緒に暮らしてる筈ですもんね!」
 ひどい言葉だった。言い放った自分の胸が悪くなるほどの、侮蔑。
「黙れと言っている!」
 びりびりと車内の空気が帯電した。ロイの怒気に反応して、小さな火花がパチパチと弾ける。
「これ以上一言でもハボックを侮辱してみろ。例え部下でも、許さない…!」
 バンッと乱暴にドアを開けて、ロイは車を降りた。
「………大佐っ…!」
 慌てて後を追うカーティスを目線で制して、冷たく言い放つ。
「来るな!」
 上官の纏う怒気に身が竦んだ。彼は本気で怒っていた。
「あ……」
 ふっとロイの瞳が柔らかい光を帯びる。柔らかく、そうして切なげな光。
「ハボックは死んだよ ─── 私達が一緒にいられたのは、本当に短い間だった」
 一緒にいられた時間は短くとも、誰よりも幸せだったのだと雄弁に語る瞳だった。今もまだ、彼は逝ってしまったその人を変わらず愛しているのだろう。
「ここからは自分で歩く。暫らくお前の顔は見たくない」
「………っ。」
 自分がどれだけロイを傷付けたのか、カーティスは遅まきながら悟った。



Next