MEMORY 2
〜菫青石の恋〜

亮水瀬


「あれえ? ジャック、髪切ったんだ?」
「うん。何か鬱陶しくて」
 むしゃくしゃした気分を変えようと、久しぶりに床屋にいった。考えてみれば、忙しさにかまけてここ三ヶ月ほど、まともに手入れをしていなかったのだ。
「いんじゃね? すっきりしたよ」
 照れくさそうに短い前髪をかき上げる同僚に、黒縁眼鏡のひょろりとした男はのほほんと笑いかけた。リチャード・グレイン自身は全くの事務職だったが、年が近いこともあってこの尉官とはよく一緒に飲みにいったりナンパしたりと楽しい付き合いを続けている。
「願掛けでもしてたわけ?」
「いんにゃ?…単に不精してたら伸びた」
 赴任してきたばかりの半年前にはそれでも一応撫で付ければ鬱陶しくないほどの長さだったのが、最近では襟足を纏めないとどうにもならなくなっていた。前髪も目が隠れるほど伸びてしまって、そちらはさすがにホークアイに注意されたのだ ─── 照準を合わせる時に、邪魔になるといって。
「は、はははは。ジャックらしいや」
「それより今夜、飲みに行こうぜ、ディック」
「大丈夫なのか?」
 このところカーティスはずっと、上官の護衛で夜が遅かった筈だ。
「うん。大佐、暫らく禁酒だって」
「は? なんで?」
「 ─── さあな。」
 一瞬彼は眉を顰めたが、その理由をグレインに言おうとはしなかった。

「おはようございます」
 友人と別れ、いつものように司令室に入る。
「おはようございます、カーティス准尉」
 先に来ていた小柄な曹長が笑いかけ、朝の挨拶を返す。だが彼は、入室した年下の尉官を見た途端、驚いたように目を瞠った。
「……えっと……准尉、ですよね?」
「うん。何? フュリー」
「あ、いえ。知人と似ていたもので、ちょっと驚きました」
「? 今更?」
 もう半年も一緒にいるというのに。
「……髪切ったせいじゃないんですか? すっきりしましたね」
 ちょっと困ったように視線を泳がせてから、彼はそう答えた。
「そうか?」
 どこか釈然としない思いで、カーティスは席に付く。だがその違和感は、後からやってきたブレダの叫びではっきりしてしまった。
「 ─── ハボ?……何でっ?!」
「ちょっ……少尉、俺っス!」
 早足で駆け寄ってきたハイマンス・ブレダにがくがくときつく肩を揺すぶられ、カーティスはさすがに呻いた。
「あ……。す、すまんっ…」
 ブレダは慌てて手を離すと、気が抜けたようにがっくりと隣りの椅子に座り込んだ。
「そうだな……あいつがいるわけねえよな…」
「 ─── 何なんっスか? 俺、そんなに誰かに似てる?」
 久しぶりに髪を切ってすっきり出勤したのに、これはないだろう。
「何の騒ぎ?」
「中尉!」
 抗議しようと駆け寄ったホークアイまでが、途中でぎくりと身を強張らせた。
「………っ」
 ばさりと腕から書類の束が落ちる。その手が小刻みに震えている事に気付いて、カーティスは驚いた。気丈な彼女のこんな表情を見たのは初めてだった。慌てて書類を拾い集めてホークアイの手に押し込むと、はっとしたように彼女は後ろを振り向いた。
「大佐…」
 黒髪の上官が、無表情に立っている。
「髪を切ったのか、准尉」
「………は、い」
「さっぱりしたじゃないか」
 ぽんぽんとまるで子供にするように軽く頭を叩いて、ロイはそのまま奥の執務室に消えた。後にはひどく微妙な雰囲気で佇む司令部の面々と、どこか途方に暮れた表情の金髪の准尉が残された。


* * *


「なあ、もうその辺で止めとけよ」
「………うっさいなあ。久しぶりなんだから、ゆっくり飲ませろって」
 もうぐだぐだなのにテーブルにへばりついてまでグラスを重ねようとする同僚に、グレインは困ったように肩を竦めた。カーティスの酒は概ね陽気で翌日に残らないもので、こんな風に度を越して酒を過ごす彼を見るのは初めてだ。一度独身寮に戻って着替えてきていたのはラッキーだったかもしれない。軍服のまま安酒場でくだを巻いていたら、目立ってしょうがないだろう。
「…何なんだよっ…くそっ……俺が、どうしたってんだ…っ」
 何があったのか知らないが、カーティスはずっと小声で愚痴っていた。相談を受けたわけではなかったから彼は黙って酒に付き合うだけにしていたが、それにしたって限度がある。完全に潰れてしまう前に、連れ帰らなくては。
「ジャック……ジャッキーっ! ほら! 起きろよっ」
「ん〜……っ」
 自分より上背のある身体を支え起こそうとして、彼はよろめいた。
「 ─── っ」
「す、すいませんっ」
 ドン、と後ろを通る男にぶつかってしまい、慌てて謝る。だが不機嫌に振り返った男は、ふと目を眇めるとグレインの腕から滑り落ちそうな青年をジロジロと凝視した。
「……何か?」
「…どっかで見た顔だな?」
 ぐいと頤を掴まれて、カーティスは薄く目を開けた。
「……だ、れ…?」
 アルコールで潤んだ青い瞳が、ぼんやりと自分を見詰める男の視線を受け止める。しどけなく肌蹴たシャツの胸元から上気した若い肌の香りが立ち上がるのに、男は目を細めた。
「お前…ベアルファレスの館に昔いなかったか?」
「……しら、ね……っ」
「嘘付け。…まあお前には客の一人に過ぎなかったろうから、覚えてなくてもしょうがねえか。けど、俺は忘れてねえよ、ハボック ─── 三年経っても、お前よりイイ奴には当たらなかったぜ?」
 くくくと下卑た笑いを零しながら、見知らぬ男は彼の頬を撫で回した。ぐらぐらする頭のまま、カーティスは身を捩って男から逃れようとする。だが男は、逆に彼の連れの身体をぐいと脇に押しやって倒れ掛かる金髪ごと抱きこんでしまった。
「こんな柔っちそうな奴より、今夜は俺にしとけ。愉しませてやるよ。心配しなくても、金ならちゃんと払うぜ?」
「………か、ね?…」
 意味がわからず、カーティスは眉を顰めた。
「なんだ? もう商売辞めたとか言うんじゃないだろうな? お前、ベアルファレスって娼館の売れっ子だったろうが。男に脚開いて大金稼いでた奴が、そうそう他の仕事に就けるもんか」
「 ─── っ!!」
 項に酒臭い唇を押し付けられて、鳥肌が立った。男の行動の意味をようやく理解して、酔いが吹っ飛ぶ。
「ざけんじゃ、ねえっ…!」
 次の瞬間、彼は相手の男の鳩尾に容赦なく膝を蹴り込んでいた。

「……どういう事ッスか!」
 寮住まいのブレダの部屋の扉を夜中だというのに強引に開かせて、カーティスは怒鳴った。
「…お前、こんな時間に何を……」
「ハボックって誰っス? 俺、そんなにそいつに似てんですかっ?」
 土砂降りの中を傘も差さずに走ってきた彼はずぶ濡れだった。短い金髪からぽたぽたと雨の雫が零れ落ちるのも気にせず、真正面からブレダを睨む。その後で、一緒にいたらしいグレインがおろおろと辺りを見回していた。
「落ち着け、カーティス。とにかく中に入れ。そんなとこで叫ばれちゃ、迷惑だ」
 促され、彼はようやく背中の逆毛をおさめた。確かにこんな深夜に廊下で喚かれたのでは、他の部屋から苦情が来るだろう。
「悪いが、グレインは遠慮してくれ。ちょっと微妙な問題なんでな」
「……はい。」
「ほら、カーティス。来い」
 パタンと閉まったドアの前で小さく溜息を付くと、彼は濡れて曇った眼鏡を拭き直して自室へ向かった。

 むすっと押し黙った年下の准尉に、ブレダは苦笑して椅子を勧める。
「ほら、飲め」
 それからパックのオレンジジュースをコップに注いで差し出した。
「……子ども扱いせんでください」
「別に子ども扱いじゃねえよ。単に茶を沸かすのが面倒なだけだ。だからってこの上酒じゃあ、よけい拙いだろ? 第一それは、俺の朝飯用だ」
「 ─── 」
 カーティスはしぶしぶコップに口を付けた。甘酸っぱい果汁がアルコールでいがらっぽい喉を洗い流し、ささくれ立った神経がほんの少し宥められる。
「一体どうしたんだ?」
「……ディックと飲んでて…酒場で絡まれたんス。何か、俺を誰かと間違ったみたいで…」
「 ─── 。」
 ブレダはこっそり溜息を付いた。髪を切った部下を見た時から、やばいかもしれないと思ってはいたのだ。あれから三年が過ぎたが、繁華街では刃傷沙汰まで起こした売り子の顔を覚えている客がいてもちっともおかしくなかったからだ。本来ならそれだけの時間が経てばかなり面変わりしているはずの成長期の男に、生憎目の前の若者は年齢的にも重なってしまう。カーティスはもうすぐ十九歳になろうとしていたし、彼が逝ったのは、ようやく二十歳の時だった。
「ジャン・ハボックって名前だ。俺の古い友人でな、今のお前に見た目はよく似てた」
「………ハボック。」
 酒場で男に囁かれた名前だった。
「マスタング大佐の恋人 ─── いや、そんな言葉じゃ足りない。あの人がこの世でたった一人、本当に愛した相手だったよ」
「大佐の?」
 女っ気のない邸の中で、時折感じた誰かの影。揃いの食器。靴棚の奥の、上官のものとはサイズの違う靴 ─── 。
「でっ…でもあいつ、俺を………っ」
 項に吹きかけられた男の息の生臭さを思い出して、また鳥肌が立つ。
「しょ、娼館にいたって……っ!」
「…ああ。ハボックは、ベアルファレスの館に勤める売り子だったからな」
「………!!!」
 混乱したカーティスは、叫び出したくなるのを抑えるのが精一杯だった。



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