MEMORY 1
〜菫青石の恋〜

亮水瀬


「ったく、どこ行っちまったんだよ、あの人……どうせまたどっか潜り込んで昼寝でもしてんだろうけど…」
 ぶつぶつと文句を言いながらも、彼は律儀に上官の探索を続けた。司令部内は基本的に安全な筈だが、それでも常に護衛対象の所在を把握しておくのが彼の務めだ。
「あ、居た!……大佐!!」
 中庭の隅の大きな楓の木の陰に、黒髪の男が寝そべっていた。傍らには分厚い古書。一見無防備そうに見えるその姿に眉を顰めようとして ─── 彼はふっと肩の力を抜いた。右手に嵌められた白い手袋に気付いたからだ。
「とっくに昼休み過ぎてますよ、マスタング大佐。中尉が怒髪天突かないうちに、仕事に戻ってください」
「……煩いな。昨夜遅かったんだ。もう少し寝かせろ」
 薄目を開けた男はうっそりと部下をねめつけると、再び目を閉じた。午後の柔らかい日差しが、梢越しにちらちらと射し込む。確かに、昼寝には打ってつけの日和だった。
「けど、中央から佐官がいらしてますよ。ええと、軍法会議所の中佐で……」
「 ─── ヒューズが来ているのか?」
「あ、はい。その人っス」
 たった今まで弛緩しきっていたとは思えない無駄のない動作で起き上がると、男は軍服に付いた芝生をパンパンと手で払った。それから、思い出したように発火布の手袋を外して隠しに仕舞い込む。
「丁度いい。お前に会わせろとこの間から電話口で煩かったからな ─── 紹介してやろう、カーティス」
「え? 俺ッスか?」
 わざわざ中央の中佐に自分を引き合わせる意味がわからず、カーティスと呼ばれた青年はぼさぼさの金髪頭をガリガリと掻いた。

「えーーっ?! お前の新しい護衛官って、こいつ? こいつなわけ?!」
「だからそう言ってるだろう」
「だって、こいつ男じゃん! どっからどう見ても男!…お前、ハニーブロンドにきらっきらのブルーアイの別嬪だって言ってたじゃねえかっ!」
 鬱陶しく身悶える髭面から、ロイ・マスタングは嫌そうに視線を逸らした。
「私は別嬪だとは一言も言った覚えがないが?」
「士官学校出立てのぴっちぴちの十八歳、金髪碧眼、名前はジャクリーンって説明されたら、誰だって女の子だと思うだろ! 普通!」
 びしっと指を突きつけられ、執務室の前で青年は硬直した。上官に入室の許可を得てドアを開いたまではよかったが、その途端に見知らぬ男に素っ頓狂な声で罵られたのだ。これで驚かない方がおかしい。
「今月から護衛官を務めてもらっている、ジャクリーン・カーティス准尉だ。見ての通り金髪碧眼の男性士官だが、どこか文句があるかね? 大体副官も護衛官も女性士官を選んだら、私の常識を疑われかねないと思わんか?」
「う…ま、まあ、それはそうかもしれんが…」
 只でさえロイは東方一の女たらしだと噂されているのだ、この上不要な誤解を招きかねない人事は控えるべきだろう。ましてや相手が士官学校を出たばかりで軍の右も左もわからない准尉ときたら、これはもう、私的な理由での人事としか思われないに決まっている。
「正直まだ全然使い物にはならんが、側に置いて鍛えるのもいいかと思ってな。まあ一通りの体術はこなせるし、射撃の腕も悪くない ─── そちらは中尉が一から仕込んでくれるそうだ」
 ひゅーっと短く口笛を吹いて、マース・ヒューズは天井を仰いだ。
「そりゃ大変な相手に見込まれちまったなあ、ボウズ。リザちゃんはこいつ護るためなら容赦ねえぜ? 血反吐覚悟で喰らい付いてけ」
「Yes, Sir!」
 背中を遠慮なしに叩いてくる大きな掌に咽ながら、カーティスは律儀に敬礼を返した。


* * *


 それはありふれた光景だった。
 陽だまりの芝生の上を、四、五歳くらいのブロンドの子供が転げ回ってる。傍らには目を細めてそれを見守る優しげな若い母親と、のんびりと寝そべる恐らくは父親だろう長身の男。やがて男はのっそりと起き上がり、自分の足にじゃれ付いていた子供を目線近くまで高く抱き上げた。
 子供の弾けるような笑い声がこちらまで届いてきて、彼は少し切なげに目を伏せた。金色の睫毛に縁取られた空色の瞳が、柔らかく翳る。
「どうした?」
「…何でもないっス」
「じゃあ何故そんな顔をしている?」
 今にも泣き出しそうに潤んだ瞳に引き寄せられるように、ロイは青年の金髪に手を伸ばした。くしゃりと柔らかい髪を掻き混ぜると、力の抜けた身体がことんと胸に寄り掛かってくる。
「オレも、あんな風に『許された子供』になりたかったなって……」
「……ハボック」
 家族の中でたった一人、金髪碧眼だった子供。
 まるでその事自体が罪の証であるように、見捨てられ、虐げられて育ったと聞いた。いつもひっそりと、消え入りそうに小さく小さくなって生きてきたと。多分彼には、目の前の子供のような経験は全くないのだろう。
「でも今は、あんたがいるから」
 そう言ってほわりと微笑う彼が愛しくて、思わずきつく抱き締める。再会したばかりの頃に比べて痩せて頼りなくなってしまったその肩に、ロイは軽く眉を寄せた。こんな風に穏やかに陽だまりで寄り添って過ごせるようになるまでに、どれだけ辛い思いをさせたか ─── 一時はもう、二度と顔を合わせることすら叶わなくなるのではと危惧したものだった。
「だからもう、寂しくないっス」
「 ─── っ」
 たまらなくなって、そこが公園だということも忘れて口付けた。
 腕の中の愛しい相手は、最初こそ大きく目を瞠って恥ずかしげに抗う素振りを見せたが、やがておずおずと口付けに応えて背に縋ってきた。
「マスタングさん…」
 柔らかく響く声。
「ずっと、一緒だ……ハボック」
 自分の腕の中で幸せそうに笑うその笑顔を守りたいと、ロイは強く思った。


* * *


「……んっとに、飲みすぎッスよ」
 珍しく酔い潰れてしまったロイを自宅まで送り届けて、カーティスはぶつくさと居間に向かった。
 上官が中央から久しぶりにやってきた親友と多少酒を過ごした事自体は、別に問題なかったのだ。だがこのところ連日の接待でいい加減ストレスを溜めていたらしいロイは、アルコールに強いヒューズに付き合って早々にダウンしてしまった。
 そう言えば日中も随分眠そうにしていたと、今更ながらカーティスは思い出す ─── 疲れているのだろう、ソファーに座らせた途端にぐらりと傾いで寝息を立て始めた上官に、若い准尉は困ったように首を傾げた。
「上まで連れて行くのは、ちょっとなぁ…」
 何度か送迎した事があったから寝室が二階にあるのは知っていたが、さすがにそこまでプライベートに踏み込むわけにもいかなくて。ましてや今、相手は前後不覚の状態だ。いっそヒューズ中佐の泊まっているホテルにそのまま押し込んで帰ってきてしまえば良かったかと思案する。だがあの髭面のおっさんは、
『明日の朝面倒だから、連れて帰ってくんねえ?』
と、こともなげにこちらに丸投げしてよこした。まあ、この人の世話も自分の仕事のうちだとすれば、確かにそれが正論だ。
「大佐、マスタング大佐! 起きてくださいよっ! こんなところで寝たら、風邪引いちまいます」
「……ん…」
 揺り起こす腕を鬱陶しそうに払って、男は逆を向いてしまった。
「大佐ってば!」
 閉じた瞼に薄く隈が浮いているのに気付いて、彼は溜息をついた。何だか無理に起こすのも忍びない。仕方ないので玄関で上官から受け取ったロングコートの埃を丁寧に払って、ハンガーに掛け直す。このままでは軍服が皺になってしまうだろうが、そっちは替えがある筈だから大丈夫だろう。
それからキッチンの食器棚からグラスを取り出し、冷蔵庫のミネラルウォーターを注いで居間に戻る。
「………」
 一人暮らしの上官の邸のあちこちに、ひっそりと紛れ込んでいる『誰か』の影に、彼はちょっと小首を傾げた。例えばそれは、お揃いの二客のティーカップだったり、さりげなく揃えられたカトラリーだったりするのだが ─── ロイ・マスタングが特定の女性と深い付き合いをしているという噂は全然聞こえてこなかった。広く浅く、が彼の信条だ。
“……前の、彼女とか?”
 それにしては、女性の匂いのしない邸だった。落ち着いた居心地のいい住いには違いないが、女性の持ち物が何もない。カーティス自身の実家を思い出すまでもなく、家族に女性がいればそれなりにわかるものだ。まあ逆に、独身男の住いの持つむさ苦しさとも無縁ではあったが。
「水持ってきましたから、飲めるようだったら飲んでください」
 試しに口元にグラスを付けると、その冷たさにうっすらと目を開けたロイは唇を開いた。
「あ、大丈夫ッスか?」
 アルコールで火照った喉に冷たい水が気持ちよかったのだろう、ロイは瞬く間にそれを飲み干す。
「もう一杯要ります?」
 どこかぼんやりした目で見返しながら、男は微かに頷いた。金髪の部下は小さく笑ってテーブルに置いた壜を取ると、グラスに水を追加した。
「大佐?」
 だが振り向いた時には酔っ払いの頭は再びソファーに沈んでいて、肩を揺すっても叩いてもまるで起きそうに無かった。
「……しょうがないですねえ。じゃあ俺、このまま帰りますよ? 鍵、明日まで預かっておきますんで」
 毛布代わりに自分のコートを脱いでソファーに眠る男の肩に掛ける。まだ夜は肌寒かったが、車に乗ってしまえばたいして寒さも気にならないだろう。
「じゃ、おやすみなさい」
 そう言って踵を返した青年は、だが歩き出す事が出来なかった。
「 ─── え?」
 いきなりぐいと引き戻され、ソファーに押し付けられる。
「なッ……っ?!」
 組み敷かれ、激しく口付けられていると気付いたのは、上官の舌が唇を割って押し入ってきたからだった。
「……っ!……っ!!」
 息苦しさに身を捩って逃れようとする度に、きつく抱き込まれた。逃げる舌を絡め取られ、呼吸すら奪いつくされそうな勢いで、深く口付けられる。
「…っ……たぃ、さ……っ!」
 目眩がした。
 こんなキスは、全く経験がない。彼はまだ若く、こういう形で求められた事もなければ、恋愛に耽溺するほど女に夢中になった事もなかった。むしろ友人と馬鹿騒ぎをするほうがまだ楽しかったのだ。
「 ─── っ!」
 突然、激しい勢いでドンと突き飛ばされる。
「……う、わっ……」
 そのまま居間のカーペットにしりもちをついて、カーティスは呆然と目の前の男を見遣った。
「……すまん。」
 ロイは真っ青な顔で、こちらを見詰めている。
「……大佐」
「悪かった。間違えた」
 口元を押さえたままばつが悪そうにそう呟く上官に、彼はカッとして立ち上がった。青い顔のロイとは正反対に、カーティスは茹でダコのように真っ赤になっていた ─── 羞恥と怒りと惑乱と、それから ─── 自覚のない嫉妬で。
「ふ、ふざけんな! この酔っ払い!!」
“間違えた? 間違えたって、なんだよそれ!…誰かと間違って、俺にあんなキスしたって言うのか?!”
「カーティス」
「帰ります!!」
 ばたばたと騒々しい音を立てて、彼は上官の邸を飛び出した。遠くでエンジンの掛かる音がして、やがて静寂が戻る。
 一人取り残された男は、小さく溜息をついてソファーに身を沈めた。
「………参った」
 夢見が悪すぎたのだ。目を開けた途端視界を遮った青い瞳と金糸に、一瞬錯覚した。今まで一度だって、部下の准尉と彼とを見間違えた事など無かったのに。
「…ハボック」
 そっと内ポケットの銀時計を取り出す。文字盤とは逆側の蓋を開けると、そこには金色の髪がひと房納められていた。
「誰もお前の代りになど、なれんよ…」
 奇跡のように惹かれあった魂だった。もう二度と、訪れる事のない恋。
「 ─── してる。」
 ぽつりと呟いて、彼は時計の蓋を閉じた。


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