幻想女神  第一章


「んー」
 ハボックはベッドの上に体を起こすと思い切り伸びをする。コキコキと首を鳴らして言った。
「あー、昨日は飲み過ぎたなぁ」
 夕べは久しぶりに小隊の連中と飲みに出かけた。浮かれて騒いで何軒も梯子した後、最後に入った胡散臭い店で飲んでからどうやってアパートまで帰ったか記憶にないあたり、相当飲んだと言えるだろう。ハボックはまだ酔いの抜けない頭をシャンとさせようとシャワーを浴びるためベッドから足を下ろす。立ち上がろうとしたハボックはグラリとバランスを崩して上げかけた腰をベッドに落とした。
「あれ?」
 なんだかバランスの重心が上半身にあるような気がする。着ているスエットの胸が苦しくて胸元に目をやったハボックは、空色の瞳を見開いて凍り付いた。
「ええと」
 たっぷり五分は自分の胸元を見つめた後、ハボックはそう呟く。見事な盛り上がりを見せる自分の胸を指先でそっとつついた。その途端、ボヨンと震えるそれに目を丸くする。そしてそのボヨンと震えた振動を自分の胸で感じた事に気づいてブルブルと唇を震わせた。
「なっ、なんだこれっ!!」
 ハボックはそう叫んで豊かな胸を鷲掴む。手のひらに余るその柔らかな膨らみにフニャと顔を弛めて言った。
「わお。ボイン大好きッ」
 思わずそう言ってしまってからハッとする。
「じゃなくてっ!」
 自分の胸がボインでもちっとも嬉しくない。ハボックは恐る恐るスエットの襟首から中を覗き込んだ。いつもなら筋肉に覆われている胸は柔らかな膨らみを見せている。白い盛り上がりの頂点を飾る薄紅の飾りを見て、ハボックは呆然とした。
「うそ……なんで?」
 これはどう見ても女性の胸だ。暫くの間呆然と見つめていたハボックはハッとして手を股間にやる。いつもならしっかりとした膨らみがあるそこに何もないことに気づいてサーッと青褪めた。
「ない……」
 胸がボインになったショックより大事なブツがなくなったショックの方が数倍も大きかった。ハボックは呆けたようにベッドに座っていたが一つ瞬きするとぶんぶんと首を振った。
「しっかりしろ、呆けてる場合じゃないだろ」
 ハボックは言って頬を両手で叩く。何度も大きく息を吸っては吐いて気持ちを落ち着けようとした。
「一体なんだってこんな事になったんだ?あ、もしかして悪い夢とか?」
 一縷の望みをかけてハボックは自分の頬をギュウッと引っ張ってみる。痛みに涙が滲んで残念ながら夢でないことが判った。
「なんか変なもん食ったっけ?なに食ったら男が女になんの?肉?魚?」
 肉や魚を食べて性別が変わるなどという話は聞いたことがない。大体そんな肉や魚があったら危ないことこの上ないのだが、落ち着いたようでまだ混乱しているハボックにはそんな事は重い至らなかった。考え込む時の癖でハボックは無意識に腕を胸の前で組もうとして眉を顰める。豊かな胸が存在を主張して邪魔でしかたなかった。
「邪魔くせぇ……」
 ハボックはそう呟きながらも腕を組む。だが、腕の上に胸を載せているような気になって、腕を解くと手を尻の脇について背後に体重をかけるようにして天井を見上げた。
「うーん……」
 とりあえず原因を探して夕べの行動を思い起こしてみる。順番に行った店とそこで何をして何を飲み食いしたか考えてみたが、先に進めば進むほど記憶が曖昧になっていった。
「結構飲んでたからなぁ……」
 正直最後の方になると何を飲み食いしたかなどさっぱり思い出せない。「うーん、うーん」と唸りながら考えていたハボックの頭に不意に薔薇色の液体が注がれたグラスが浮かび上がった。
「あ」
 と、ハボックは目を見開く。ぎゃあぎゃあと浮かれて歩いていた挙げ句、あまり足を踏み入れたことのない路地の片隅にひっそりとライトを灯していた小さなバーに入った事を思い出した。
『珍しい酒があるんです』
 照明が不思議な光を零す店のカウンターの向こうで、マスターはそう言って笑うと棚の中から一本の酒瓶取り出した。とろりとした薔薇色の液体をグラスに注いで言ったのだ。
『この酒は飲む人によって味が変わる。もの凄く美味しいと思う人もいれば、あまりの不味さに吐いてしまう人もいる。名を“ファントムレディ”と言う不思議な酒なのです』
 飲んでみますか?と聞かれ、酔いも手伝ってテンションが上がりきっていたハボック達は順番にグラスに口を付けた。部下達がちょっと舐めては「苦い」だの「酸っぱい」だの「辛い」だの、皆が皆顔を顰めてグラスを置く中、ハボックだけが「甘くて旨い」と言って一人グラスの中身を飲み干してしまったのだ。
「もしかしてあの酒が……?」
 他に変わったものなど口にした記憶はない。ハボックはとりあえずその店に行ってマスターに酒の話を聞いてみることにした。幸い今日は非番だ。ハボックは重心に気をつけて立ち上がると急いで服を着替えようと勢いよく一歩踏み出した。その途端。
「うわ」
 ポヨンと弾む胸に目を瞠る。更に数歩進めばポヨポヨと揺れる胸を顔を赤らめて腕で抱えた。
「うそ。女の子の胸って歩くとこんなに揺れんの?」
 なるべく気にすまいと思ってもこれでは気にするなと言う方が無理だ。ハボックは胸を抱えるようにしてクローゼットに歩み寄ると中からTシャツとジーンズを取り出した。胸が締め付けられて苦しかったスエットを脱ぎ捨てるとなるべく胸を見ないようにしてシャツを着る。ジーンズに足を通して服を身につけたハボックは自分の姿を見下ろして情けなく眉を下げた。
 女性になったハボックの体は一般的な女性よりは大柄なものの、普段のハボックからはふた周りほど体格が小さくなったようだった。ジーンズの裾は明らかに長くて、ハボックは仕方なしに裾を折り曲げる。それからTシャツの胸元を見て真っ赤になった。男性の時でもわりとピッタリとしていたそれは、女性になった今では胸のあたりだけがピッタリとフィットしている。そのせいで豊かな胸の頂がシャツ越しにプチリと立ち上がっているのがはっきりと判って、ハボックは思わず腕で胸を隠した。
「どうしよう、こんなんじゃみっともなくて外出れねぇ……」
 当然と言えば当然だが生憎ブラジャーなどというものは持っていない。ハボックは悩んだ末、クローゼットの奥から厚手のジャンパーを取り出すとそれを羽織った。
「こんな天気のいい日になんでこんなもん……」
 秋になったとはいえ、日中陽が射しているときはかなり暖かい。いつもならTシャツ一枚で過ごすのにこんな厚手のジャンパーを着ていると暑くて仕方なかった。
「でも、胸見えちゃうし」
 ハボックはそう呟いて袖を引っ張って肘の上まで上げる。いつもなら服を着た後覗き込むクローゼットの鏡は怖くて覗けなかった。
「きっとすげぇ気持ち悪いだろうし……」
 いくらボインでもそれがついているのが自分の体だと思うとどう考えても気持ちの悪い姿しか想像できない。外に出るのに抵抗がないと言えば嘘だが、ここにじっとしていても解決策が浮かばないとなれば、多少の恥は振り捨てて一刻でも早く元に戻る方法を探すべきだろう。
 とりあえず何とか外に出られるよう格好を取り繕うとハボックはアパートを出た。
「あの店……どこにあったっけ……」
 そもそも酔って騒いでふらついた挙げ句偶然入った店だ。正直どこにあったか覚えておらず、困ったハボックは夕べ一緒だった部下に聞くことにした。
「マイクだったらきっと覚えてるし」
 小隊の中でも記憶力抜群の男の名をハボックは呟く。片手で胸を押さえるようにして司令部への道を急ぐハボックは視線を感じて立ち止まった。
「………」
 足を止めて辺りを行き交う人に目をやれば明らかに数人の男が目を逸らす。ハボックは不安げに男達をちらちらと見たが、逃げるように足早に歩き出した。
(オトコ女だ、気持ち悪いって思われてるんだ。そうだよな、男のオレに胸があるんだもん)
 たとえばブレダやファルマンに胸が出来たところを思い浮かべれば、いかに自分の姿が不気味か想像がつくと言うものだ。こんな時はせめてフュリーのように小柄だったらなどと、埒もないことを思って俯きがちに早足で歩いた。羞恥に顔を赤らめ自分の足下だけを見て歩いていたハボックは、自分を見つめる男達の視線が、ねっとりと纏わりつくように己の体を這い回っている事に気づかなかった。


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