紫2 序章  前半



「どうしよう、また伸びてる…」
 ハボックは姿見に映る自分の姿を見て途方に暮れた。つい1週間前には頭まできちんと映っていた筈なのに、今では鏡の枠ギリギリの所に頭のてっぺんがある。
「どうしよう…」
 ハボックは姿見を閉じるとため息をついた。もうすぐ16になるハボックは、今、育ち盛りだ。ほっそりとしていた体は適度に筋肉もついてきてしなやかな獣のようだ。身長はこの1年くらいでぐんぐん伸びて、先日から出張に出かけているロイとほとんど変わらないまでになってきている。
 ハボックはもう一度ため息をつくと階下へと下りて行った。階段を下りるその背中が心持ち前かがみになっていることを、本人は気がついていないようだった。
「おはようございます、ハボック様」
 ダイニングに入っていくと食事の支度をしていたノーマンがにっこり笑ってハボックに声をかけてきた。
「おはよう、ノーマン」
 ハボックはノーマンがテーブルに並べているおいしそうな湯気を上げている卵料理を見つめてため息をついた。
「ノーマン、悪いんだけど、オレ、ヨーグルトだけでいいや」
 そんな事を言うハボックに、ノーマンは皿を並べていた手を止める。
「どうなさいました?どこかお加減でも?」
「そういうわけじゃないけど…。ちょっと食欲がなくて」
「どういう具合なのですか?お医者様を…」
「あっ、そ、そんなたいした事ないからっ!ちょっと、その…寝不足…」
 しどろもどろにいい訳するハボックを、ノーマンは怪訝そうに見ていたがとりあえずそれ以上追求しようとはしなかった。
「仕方ないですね…。でも、具合が悪いのでしたらちゃんと仰ってくださいよ?」
「うん。ごめんね、ノーマン」
 ハボックはそう言うとノーマンが用意してくれたフルーツの入ったヨーグルトを食べ始める。ノーマンはそんなハボックを微かに眉を顰めて見つめていた。


「ごちそうさま…」
 そう言ってフォークを置いたハボックの前の皿の料理が殆んど減っていない事に、ノーマンは心配そうにハボックを見つめた。
「全然召し上がっていないじゃありませんか。どこか具合が悪いのですか?」
「そ、んなことないよ」
「しかし…」
「ホントに、なんでもないから。お腹すいてないだけ。ごめん、ノーマン…っ」
 ハボックは叫ぶように言い捨てると席を立ってダイニングを出て行ってしまう。バタバタと階段を駆け上がる音に、ノーマンは呆然と立ち尽くした。


 ノーマンには悪いと思いつつ、部屋に戻ったハボックは姿見の中の自分の姿を見つめた。ここ数ヶ月でにょきにょきと伸びた背は、恐らくもう、ロイを追い越してしまっただろう。声も、子供の頃の可愛らしいそれとは随分変わってしまった。最近では、行為の度に零れてしまう自分の声が気持ち悪くて、出来るだけ声を上げまいと血が滲むほど唇を噛み締めるのが常だった。ハボックはため息をつくと鏡の中の自分を殴りつける。
「なんでこんなデカくなっちゃったんだろ…」
 確かに小さい時には早く大きくなりたいと思った。だが、ロイよりも大きくなることなんて考えてもみなかった。
「声だけじゃなくて、見かけもこんな可愛くなくなっちゃって…も、抱いてもらえないかも…」
 そう呟くと、ハボックはぽろぽろと涙を零した。誰よりも大好きなロイに触れてもらえなくなるかもしれないと考えただけで、胸が張り裂けそうになるほど痛い。せめてこれ以上大きくなりたくなくて、食事をとらなければ少しでも大きくならずにすむのではないかと考えて。お腹がすくのは辛かったが、そんなことよりロイに嫌われることの方がよっぽど辛い。
 ハボックは手の甲で乱暴に涙を拭うとぎゅっと唇を噛み締めた。


「ハボック様っ!いい加減になさいませっ」
 昨日の朝からまともに食事を口にしようとしないハボックに、さすがのノーマンも声を荒げた。
「一体どうなされたのです?具合が悪いというわけではなさそうですが…」
 じっと見つめてくるノーマンにハボックは決まり悪げに目をそらした。
「そんなに私の料理は食べたくありませんか?」
 そう言われてハボックは慌てて否定した。
「ちがうっ、そんなんじゃないっ!」
「それでは、どうして…」
 だが、ハボックはぐっと唇を噛み締めて答えようとしない。
「ハボック様」
 ノーマンの声にハボックの瞳に涙が膨れ上がった。ハボックはバッと身を翻すと2階へと駆け上がってしまう。
「ハボック様っ」
 後を追うノーマンの目の前でバンッと寝室の扉が閉じられガチャリと鍵のかかる音がした。
「ハボック様、あけて下さい」
 何度も宥めるように言うノーマンの声をハボックはベッドの中に潜り込んで耳から締め出した。


「危ないっ!」
 ぐらりとくず折れる体をノーマンは慌てて抱きとめる。どんなに言ってきかせても食事をとろうとしないハボックは、ぐったりとノーマンの腕の中で意識を失っていた。ノーマンはハボックを寝室に運ぶとその体をベッドに横たえた。階下に下りるとかかりつけの医師に電話を入れ、すぐに来てくれるよう手配する。2階に戻って眠るハボックの顔を見つめてノーマンはため息をついた。
「どうして、こんな事を…」
 こんなことは初めてだ。いくら理由を聞いても口を開こうとせず、どんなに宥めすかしても食事を口にしようとしない。ノーマンに不満があるわけではないようなのだが、それなら何がハボックにここまでさせるのか全く見当がつかないノーマンだった。


 目を覚ましたハボックは、視線をめぐらせて自分の腕に点滴の管が繋がれているのに気がついた。ぼんやりとそれを見つめていると、がちゃりと音がしてノーマンが部屋に入ってくる。ノーマンはハボックが目を覚ましているのを見てベッドに近づいてくるとハボックに話しかけた。
「ご気分はいかがですか?」
 ノーマンの声に潜む僅かな刺にハボックはそっと瞳を伏せる。そんなハボックにノーマンはため息をついた。
「ハボック様、どんな理由があるかわかりませんが、人間は食べないと生きていけないんですよ」
 ノーマンの視線が目を閉じていても突き刺さるようで、ハボックは返す言葉もない。
「貴方は死ぬおつもりですか?」
 その言葉にハボックはハッと目を見開いてノーマンを見つめた。
「このままでは死んでしまいますよ?」
「ノーマン…」
「一体どうなされたのです?」
 本気で心配するノーマンの瞳にハボックはぽろぽろと涙を零した。ひくっとしゃくりあげるハボックの髪をかき上げて、ノーマンはハボックの名前を呼ぶ。
「ハボック様…?」
「だって…っ、オレ、どんどんデカくなっちゃって…っ」
 泣きながらそう呟くハボックにノーマンは首を傾げる。
「それが?だって、ずっと早く大きくなりたいと仰ってたでしょう?」
「だって…」
 顔を腕で覆ってぐしぐしと泣き続けるハボックの髪を撫でてノーマンはハボックの言葉を待った。
「た、たいさよりデカくなっちゃって…こんなカワイくなくて…もう、抱いてもらえない…っ」
「…は?」
 ノーマンは泣き続けるハボックをまじまじと見つめると言った。
「もしかして、それ以上大きくなりたくなくて食事をとらなかったんですか?」
 その言葉に微かに頷くハボックに、ノーマンは呆れてため息をついた。
「マスタング様がそんな事を思うわけないじゃないですか」
 むしろ、ハボックがこんな事を考えていると知ったら嬉々としてハボックを抱くに違いない。
「ハボック様、今仰った事をマスタング様が帰ってこられたら仰って御覧なさい」
「えっ?」
「マスタング様がなんとお答えになるか、聞いて御覧なさい」
 そう言われてハボックはみるみる青ざめた。
「そんなの、言えるわけないじゃないかっ!」
「どうしてです?」
「だって…もう、だ、抱きたくないって言われるに決まってるもの…っ」
 そんな風に言ってはらはらと涙を流すハボックは十分に男心をそそるのだが、本人には全く判っていないようだ。ノーマンはため息をつくとハボックに言った。
「貴方が倒れたことはマスタング様にはお伝えしてありますから、その理由をきかれると思いますよ」
「言ったのっ?!酷いよ、ノーマンっ!!」
 泣き顔でノーマンを詰るハボックにノーマンはしれっとして答えた。
「マスタング様がご不在の間のハボック様のことは、全て連絡するように言われてますからね。とにかく、きちんとマスタング様とお話なさいませ」
 正直、理由を聞いてしまえばこんな馬鹿らしいことはない。次の展開がはっきりと見えているだけにノーマンは本気で心配した自分が哀れに思えてきた。とにかく、そうと判れば今自分に出来るのはきちんとハボックに食事を取らせる事だけだ。
「後でスープを持ってきますから召し上がって下さいね」
 何か言いたげな視線で自分を見つめてくるハボックに、ノーマンはきっぱりと言った。
「もう、食べたくないは無しです。いいですね」
 そう言ってノーマンは優しく微笑むとハボックの髪をくしゃりとかき混ぜ、部屋を出て行った。


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