汝的名  第三章



 何日か、そんな風にすれ違う日々が続いたが、それでもいつしかロイは以前のようにハボックに接するようになったかに見えた。相変わらずハボックを「ジーン」と呼んでからかってはその反応を楽しむ。ハボックはそんなロイに安心して軽口を返していた。だが、ロイがハボックを「ジーン」と呼ぶその時に微かに覗かせる表情にハボックが気がつくことはなかった。
「ジーン」
 ロイの声に応えてハボックが振り向く。微かに笑うその黒い瞳にハボックは眉を顰めて言った。
「オレの名前はジャンですってば」
「知ってるとも」
「だったらそう呼んでくださいよ」
「ジーン」
「…アンタね」
 ハボックはため息をつくと言う。
「で、何の用事っスか?」
 名前を訂正するのを諦めて話を進めようとするハボックに、ロイはほんの少し淋しそうに笑った。


「へ?風邪?」
「そうなの。寝込んでるみたいで」
 ホークアイは書類の束を抱えながら困ったように言った。ハボックは主のいない机を見るとホークアイに言う。
「大佐、一人暮らしでしょ?どうしてんのかな」
「頼めば看病してくれる女性の一人や二人いそうだけど…。弱っているのを見せるのがキライな人だから」
 そう答えるホークアイにハボックは唇を噛み締める。
「オレ、帰りに寄ってみます」
「そうしてくれると嬉しいわ」
 ハボックの言葉にホークアイが少し安心したように微笑んだ。


 食材の袋を抱えたハボックはポケットからロイの家の合鍵を取り出した。護衛官としての仕事の都合上、合鍵を預かっていたことをハボックはほんの少し感謝する。鍵を開けて中へ入ったハボックはひんやりと沈み込んだ家の中を見上げてため息をついた。
(この家 来るの、久しぶりなんだ)
 昔と変わらず軽口を言い合っている気がしていたが、考えてみればロイの家に呼ばれることがなくなっていた。ロイのことが心配でつい来てしまったが、もしかしたらロイにとっては迷惑な話なのかも知れない。
(でも、病気なんだし…)
 ハボックはそう考えて、もし怒られても今回だけは特別だと自分に言い聞かせて家の中へと入っていった。


(寝室、2階だったよな)
 ハボックはグラスや水差しを載せたトレイを持って階段を上がる。途中、洗面所でタオルなどを取ると寝室の扉の前に立った。
(帰れって言われたらどうしよう…)
 ここまで来て今更ではあったがなんとなく気後れしてしまう。それでもハボックはぐっと唇を噛み締めると、扉をそっとあけた。
 薄闇に沈む部屋のベッドに横たわる人の姿が見える。ハボックは扉を閉めると足音を忍ばせてベッドに近づいていった。そっとベッドを覗き込むとロイの顔が目に入った。横向きに体を小さく丸めて横たわる姿は、いつもの自信満々のそれとはうって変わって酷く頼りなげに見える。荒い呼吸が熱が高いことを教えていて、ハボックは眉を顰めるとそっとその頬に触れた。
「…熱い」
 こんな状態では薬を飲んでいるのかすら判ったものではない。ハボックは来て良かったと思いながらタオルを絞る。そっと熱い額に載せてやればロイの長い睫が震えた。ゆっくりと開く目蓋にハボックは顔を寄せてロイを呼ぶ。
「たいさ…?」
 熱に潤んだ瞳がハボックを見上げた。ハボックは小さく微笑むと話しかける。
「大丈夫っスか?何か飲みます?」
 ロイはそう言うハボックをぼんやりと見つめていたが、やがて腕を伸ばすとハボックの首に手を回した。
「ジャン…」
「…なんスか?」
 突然名を呼ばれてどきりとしながらもハボックは答えた。グイと引き寄せられてロイの脇に腕をついて体を支えたハボックの耳元にロイが小さく囁く。
「…好きだ…」
「…え?」
「…好きだ、ジャン…ずっと前から…」
 突然の告白にハボックは目を見開いたまま凍りついていた。ハボックが何も答えずにいると、スルリとロイの腕が外れてドサリとベッドに沈み込む。目を閉じて浅い呼吸を繰り返すロイを呆然と見下ろして、ハボックは呟いた。
「…な、に…今の?」
 いつもいつもふざけてまともに名前を呼んでくれたことなどなかった。それが突然ちゃんと名前を呼んだかと思えば。
『好きだ、ジャン…ずっと前から』
 ロイの言葉が頭に蘇ってハボックの顔がかあっと紅くなる。
「ちょっと、待ってよ…え、ウソ…」
(だって、しょっちゅう色んな女の人とデートしてるじゃん。前に男に言い寄られた時だって、自分は女性が好き なんだって…)
『好きだ』
 ロイの声が蘇るたび心臓がドキドキと高鳴る。
「ひでぇ、アンタ…」
 こんな形で聞かされたらウソだろうと笑い飛ばすことも出来ない。ハボックはベッドの脇にしゃがみこむとドキドキと速まる鼓動をどうすることも出来ずにいた。


 ぽかりと浮上した意識に目を開いて、ロイは天井を見上げた。2、3度瞬きして、額に手をやりそこにタオルが載っている事に気がつく。
「…タオル?」
 タオルを手にとってロイがベッドに身を起こそうとしていると寝室の扉が開いた。
「あ、目、覚めたんスね」
「ハボック」
 ハボックは近くのテーブルに持っていたトレイを置くとベッドに近づいてきた。半身を起こしたロイの額に手を当てるとホッとしたように言う。
「よかった、熱、下がったみたいだ」
 酷い熱だったから心配しましたよ、と言うハボックにロイは尋ねた。
「いつ来たんだ?」
「昨夜、仕事が終わってから。寝込んでるっていうから心配になって。中尉も心配してたんスよ」
 ハボックはそう答えるとロイに笑いかけた。
「スープ作ってあるんですけど、今食べますか?」
「ん…いや、先に水を…」
 そう言われてハボックはトレイからコップを取り上げると、水差しの水を入れてロイに差し出す。
「はい」
「ありがとう」
 ロイはコップを受け取ると口を付ける。乾ききった体に水が染み込むようで、ロイはホッと息をついた。
「汗、かいたでしょ。体拭きましょうか?」
 ハボックにそう言われてロイは慌てて首を振る。
「いや、着替えるだけでいい、そこのクローゼットからパジャマを取ってくれないか。自分で着替えるから」
「判りました」
 ハボックは言われたとおりにパジャマを取ってくるとロイに渡す。
「じゃあ、スープ、温めておきますね」
 そう言って寝室を出て行くハボックの背をロイは黙って見つめていた。


→ 第三章