汝的名  第二章



 逃げ回るロイをなんとか会議室に押し込んで、ハボックは司令室に帰るとドサリと腰を下ろして深いため息をついた。
「ご苦労様」
 そう声を掛けられて視線を上げれば向かいに立ったホークアイが微笑みながら自分を見下ろしている。
「はあ」
 軽く頭を下げて気のない返事をするハボックにホークアイは言った。
「お守りは大変?」
 そう聞かれてハボックは顔を顰める。
「オレが来る前は中尉が護衛もやってたんスよね?大変じゃなかったっスか?」
 副官の業務もあったんでしょ、と聞くハボックにホークアイは答えた。
「そうね、昔からマイペースな人だったけど、今ほどじゃなかったわ」
「え?そうなんスか?」
「少尉がきてからなんだか楽しそうなのよね、大佐」
 そう言われてハボックはげっそりとした顔をする。
「それって、オレ、遊ばれてるってことっスか?」
「とにかく、名前のことがまずツボだったみたい」
 ホークアイの言葉にハボックはげーっと顔を顰めた。
「冗談じゃないっスよ。好きでこんな名前なんじゃないんだし」
「でも、私としては助かってるのよ」
「お守りしてくれるヤツがいて、ですか?」
 不貞腐れたように言うハボックにホークアイは言った。
「だって、大佐、少なくてもあなたの目の届く範囲でサボるようになったもの」
「はい?」
「前はふいといなくなってしまうと、探すのが大変だったの。でも、貴方が来てからは貴方の目の届く所にいるでしょう」
 ホークアイは一度言葉を切って、それから続けた。
「大佐、気に入ってるのよ、貴方のこと。そして、それはとても大変なこと」
 そう言うホークアイにハボックは目を瞠る。
「大佐はよほどのことがなければ相手を自分に近づけないわ。この司令室でも大佐の信頼を得ているのはほんの数人。それも随分時間をかけて、なの。でも、貴方は違った。不思議ね」
 信じられないと言うような顔をするハボックにホークアイは真剣な目をすると言った。
「大佐のこと、お願いね」
 そう言うと司令室を出て行くホークアイの背を、ハボックは呆然と見送ったのだった。


「ハボック、今夜は暇か?」
「なんスか、突然」
「旨い酒が手に入ったんだ、飲みにこないか?」
 にこにこと楽しそうに言うロイをハボックは見つめる。返事をしないハボックにロイは更に言葉を重ねた。
「旨い酒はあるんだが、旨いつまみを作れるヤツがいない」
 そうしてにっこりと笑うと更に言った。
「ジーン、君は料理が上手だそうだな?」
 そう言われてハボックはゲンナリした顔をする。
「オレの名前はジャンですってば。大体アンタ、そういう情報、どっから仕入れてくるんスか…」
「企業秘密だ」
 偉そうに答えるロイに、ハボックはどうせ断る選択肢など自分にはないのだと諦めてため息をつく。
「食材はなにがあるんスか?」
「ない」
 きっぱり言い切るロイにハボックはがっくりと肩を落とす。
「…判りました。それじゃアンタを車で送り届けたら買い物してきますから、なんか希望があれば――」
「一緒に買いに行く」
「…そっスか…」
 もう、諦めの体(てい)でハボックは呟いて、だが、楽しそうなロイにまあいいか、などと思い始めていた。


 夕方の賑わいを見せる市場を並んで歩きながら、ロイとハボックは食材を買い込んでいた。
「もう少し野菜も取らないと…」
「これだけあれば十分だろう?」
「ダメっスよ、アンタ偏食なんだから」
 オレが作るからにはきちんと食べてもらいます、と言うハボックをロイは楽しそうに見つめる。初めてハボックを見たときから、ロイはなぜかこの青年が気に入っていた。からかえば思い切り嫌な顔をするくせに、だからと言って本気で怒るでもなく、呆れるでもなく、なんだかんだでロイの遊びに付き合ってくれる。それに、裏表のない率直な物言いも好きだった。いつも自分の周りにいる人間は、おべっかを使うか、ロイの錬金術師としての力を恐れて遠巻きに見るか、そんなヤツらばかりだった。ホークアイのように、自然と自分の側に立てる人間はほんの僅かだ。ロイはハボックもそうあって欲しいと願いながら、だがその事は口には出さずに微かに微笑んだ。


 賑わう通りを抜け、住宅街に入る。逢魔が時とも言う薄暗い時分、肩を並べて歩いていた2人は自分たちを包む気配に視線を交わした。
「なんか鬱陶しいのがいるみたいっスね」
「そうだな」
 そう囁き交わした途端、2人はバッと走り出した。その直後ばらばらと飛び出してきた人相の悪い男たちに何か言う間も与えず、ハボックは一番近くにいた相手の腕を掴むと地面にたたきつけた。
「ぐわっ」
 悲鳴を上げた相手には目もくれず、懐から銃を取り出すと流れるような動作で狙いを定め、敵の銃を弾き飛ばした。ちらりと少し離れたところにいるロイに目をやるとロイは発火布をはめた手を前に差し出すところだった。
 パチンッ!
 すっと伸ばした指先が擦りあわされると同時にドンッと焔が上がる。その鮮やかな紅に、ハボックが思わず見とれていると、ロイの怒鳴り声が聞こえた。
「ハボックっ、後ろだっ!」
 ハッとして振り返り、眼前に迫ったナイフを寸でのところでよける。微かに頬に走った痛みに構わず、ハボックは相手の後頭部に組んだ両手を叩きつけた。ほんの数分で全ての賊を叩きのめすと、ハボックはロイに駆け寄った。
「大佐、怪我、ないっスか?」
 そう聞いてくるハボックの頬に流れる血をロイはそっと拭う。
「バカっ、怪我してるのはお前だろうっ」
 そう言ってロイはハボックを睨みつけた。
「なんであの時気を抜いたっ?いくら相手が雑魚でもほんの一瞬の気の緩みが死を招くんだぞっ!」
そ う怒鳴りながら、ロイはハボックの後ろにナイフを持った相手を見つけたときの衝撃を思い出していた。ハボックが刺されると思った瞬間、心臓が冷えた。思い出したことでぶるりと体を震わせるロイにハボックは照れたように笑う。
「や、大佐の焔に見とれちゃって…」
「はあっ?」
「初めて見たけど、すげぇ綺麗で」
 そう言って困ったように笑うハボックをロイはまじまじと見つめる。今までロイの焔を見た人間は誰もがそれを忌避した。綺麗だなどと言う人間は一人としていなかったのに。
「お前…」
 呟いて見つめてくるロイの視線に気づかず、ハボックは「どうしますかね、コイツら」などとのんびりと言っていたのだった。


(なんか最近元気ないよな)
 ハボックはロイにコーヒーを差し出しながらその端正な顔を窺う。
 あの日、ロイの家に向かう路上で賊に襲われてから、ロイは考え込むことが多くなったような気がする。じっと考え込んでいたかと思うと自分をじっと見つめていたりして、理由が判らないだけにハボックは困惑していた。
(気になる、つうか、放っとけないっていうか)
 人の名前をわざと女性名で呼んだりして、もう少しマジメに仕事して欲しいとか色々思うことはあるけれど、ハボックはロイと言う人間が好きだった。ロイの笑顔が好きでできればいつでも笑っていて欲しいと思う。
(なんか旨いもんでも作ってあげたら元気でるかな…)
 ハボックはロイの予定と自分の予定を思い出しながら考えた。ここ数日は特に会食の予定もないはずだ。仕事さえなければロイのために食事を作るくらいの時間は取れるだろう。ハボックは書類から目を上げてコーヒーに手を伸ばすロイを見下ろすと言った。
「大佐、今夜か明日の夜か、時間ありますか?」
 ハボックの言葉に問いかける視線を向けてくるロイにハボックは続けた。
「飯でもどうかなって。好きなもん、作りますよ」
 そう言われてロイは僅かに顔を歪める。
「そうか…いや、だが…」
 ロイは口ごもって一度目を瞑ると、ゆっくりと目を開いて言った。
「せっかくだが遠慮しておくよ」
 そう答えるロイにハボックは目を瞠る。これまでならこちらの都合も考えず、飯を作りに来いと騒ぎ立てることなどしょっちゅうだったのに。
「他にやることがあるんだ、気持ちだけ受け取っておくよ」
 ロイはそう言うと、書類に目を戻す。これまでとはまったく違った反応を返してくるロイに、ハボックの困惑は深まるばかりだった。


 ロイは少しがっかりした様子で執務室を出て行くハボックの背中を見送ってため息をついた。ハボックが最近の自分の様子に気遣ってああ言ってくれたことは判っている。だが、ロイは気づいてしまった自分の気持ちに、とてもハボックと2人きりで過ごす気になどなれなかった。
(アイツが『ジーン』だったらよかったのに)
 そうすれば少なくても悩まなくても済んだろう。今まで付き合ってきた女性達と同じように、いやそれよりは少しマジメに付き合えばいいだけの話だ。だが。
(アイツは男で私も男だ。こんな気持ちはアイツにとっては迷惑でしかないだろうな)
 今2人きりになれば何をするかわからない。こんな衝動は今まで抱いたことがなかったが、それだけにロイは自分の中の気持ちが本気なのだと自覚せざるを得なかった。
(まったく、この私が男のアイツにこんな気持ちになるなんて…)
 欲しくて欲しくてたまらない。ロイはぬるくなったコーヒーを一気に飲み干してため息をついたのだった。


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