汝的名  第一章



 ロイは人事から回ってきた書類を前に眉を顰めた。机に肘を突いた手の平の上に顎を載せて暫く書類を睨みつけていたが、顔を上げるとソファーで書類のチェックをしているホークアイに声をかける。
「中尉」
「はい、大佐」
 ホークアイは書類から目を上げて答えた。
「今日から来る事になっている護衛官の件なんだが」
「はい」
「写真がついてない」
「写真、ですか?」
 ソファーから立ち上がってロイの側へやってくるホークアイを見上げてロイは言う。
「それに、今回の護衛官は女の君にはついて来られない場合を考えて、男を回してくれるよう頼んだ筈だったな」
「はい、そうですが」
「女だぞ、これ」
「えっ?」
 ロイが差し出した書類を受け取ってホークアイは目を通した。
「ジーン・ハボック。女だろう?」
「おかしいですね、ちゃんと男で申請を出して通った筈なんですが」
 ホークアイは首を傾げると言う。
「大佐のことだから女性がいいだろうって気を回してくれたんでしょうか」
「中尉」
 まじめな顔をしてとんでもないことを言うホークアイをロイは苦い顔でみやる。そんなロイにホークアイは
澄ました顔で「冗談です」と言うとため息をついた。
「人事のミスでしょうか。でも、もうすぐ来てしまいますよ」
 ロイはうーんと宙を睨んでいたが、背もたれに寄りかかると言った。
「仕方ない。理由を説明して、次の護衛官が来るまでの間だけいてもらうしかないだろう」
「そうですね、人事には早く回してくれるよう伝えておきます」
「文句もたっぷり言っておいてくれよ」
 ロイがそう言ったとき、執務室の扉をノックする音が響いた。お出ましだな、とロイは呟いて、それから入室を許可する。ガチャリと開いた扉の向こうには背の高い金髪の男が立っていた。男は執務室に入ってくるとロイの前に立って敬礼をする。そうして口を開くと言った。
「今日から護衛官として配属になりました、ジャン・ハボック少尉です」
 そう言って見下ろしてくる空色の瞳を、ロイはまじまじと見つめた。
「え?ジャン?ジーンじゃなくて?」
 呟くようにそう言えば、ハボックは思い切り嫌そうな顔をする。
「『ジャン』・ハボックです」
 ファーストネームを強調してもう一度名前を繰り返す男に、ロイは言った。
「だが、ファミリーネームのハボックは英語読みだろう?どうしてファーストネームはフランス語なんだ?」
「知りませんよ。オレがつけた名前じゃありませんから」
 不愉快そうに言う男に確かにその通りだとロイは頷く。それからホークアイに向かって言った。
「じゃあ人事のミスではなかったんだな」
「そのようですね」
「でも、写真がちゃんとついていれば誤解もしなかったんだ」
 その事は言っておいてくれよとホークアイに言ったロイは、改めてハボックを見て椅子から立ち上がった。
「悪かったな、少尉。私がロイ・マスタング。彼女は副官のリザ・ホークアイ中尉だ。これからよろしく頼むよ」
「Yes, sir!」
 すぐさま敬礼を返してくる背の高い男を、ロイは楽しそうに見つめた。


 司令室の扉を開けると目に飛び込んできた金色の頭にロイはにんまりと笑う。電話の相手と話し込んでいて自分に気づかない相手の背後に立つと、身を屈めてその耳元に囁いた。
「ジーン、おはよう」
「なっ?!」
 バッと囁きを吹き込まれた耳を押さえて勢いよく振り返った相手に、ロイは両手を上げてみせる。微かに目元を染めて不埒な真似をした相手を睨みつけたハボックは、それがロイだと判るとあげかけた怒鳴り声を必死に飲み下した。それから、電話の相手に何か言われたのだろう、慌てていいわけをすると二言三言返事をして受話器を置く。置いた受話器の上に手を置いたまま、はあ、とため息をつくと改めてロイを振り返った。
「大佐、くだらん冗談はやめて下さいよ」
 電話してんですから、と言うハボックにロイは楽しそうに答えた。
「電話中でなければいいのか?」
「大佐…」
「少尉は耳が弱いんだな、覚えておこう」
 楽しそうなロイにハボックは苦虫を噛み潰したような顔をする。そしてもう一つため息をつくと言った。
「大佐、オレの名前はジーンじゃありません」
「わかっているとも」
「アンタね…」
「中尉に言われている書類を終えたら視察に出るから車を回してくれ」
 ロイはハボックの不機嫌などどこ吹く風という感じでそう言うと、執務室の扉に手をかける。
「何分後くらいっスか?」
「そうだな、30分もあれば終わるだろう」
「判りました」
 ロイは肩越しにちらりとハボックの顔を見ると執務室に入って扉を閉める。
「反応が新鮮だな」
 そう呟くロイの顔は、新しいおもちゃを手にして喜ぶ子供のそれと一緒だった。


 司令部の建物を出るとロイは首をめぐらせて目当ての相手を探した。入り口から少しそれたところに駐車した車の側で煙草を吸っているハボックの姿を見つけて目を細める。
「待たせたな、少尉」
「いえ、そんなことはありません」
 ロイの声に慌てて煙草を消すと、ハボックは後部座席の扉を開ける。ロイが中に滑り込んだのを確かめて扉を閉めると、ハボックは運転席に回ってハンドルを取った。
「今日はどちらから?」
「そうだな、東地区のハーベイ・ロードの辺りにしようかな」
「…またっスか?」
「またとはなんだ、またとは」
「またあそこのケーキが目的なんでしょ?そういや今日は新作が出るとか…」
 呆れたように言うハボックにロイは意外そうに言った。
「なんだ、よく知ってるじゃないか。実はお前も食べたいんじゃ――」
「人事の女の子達が話してるのが聞こえたんスよ。大体オレは甘いもの苦手だって言ってるじゃないっスか」
 ソッコウで否定されてロイはつまらなさそうにシートに身を沈めた。それでも次の瞬間身を起こすと、運転席のシートに顔を寄せて言う。
「だからハーベイ・ロードな」
「…はいはい」
 まったく視察をなんだと思ってるんだ、とぶつぶつ呟きながらも自分のワガママを聞いてくれるハボックに、ロイは満足そうに笑った。


「だから何でこうなるんスか」
 ハボックは洒落たテラスの椅子にロイと腰かけながら低い声で言った。
「せっかく新作のケーキが出たんだ。食べないわけにいかないだろう」
 そう言ってロイは優雅な仕草で紅茶のカップに口をつける。
「だったら買って帰りゃいいでしょうがっ。今勤務中っスよ?!」
「かたいこと言うな」
 ロイはそう言うとフォークを手にワクワクした表情でケーキを見下ろした。大事そうにそっとフォークで切り取ると口に運ぶ。口に広がるケーキの甘さを楽しむとハボックに向かって言った。
「ほら、お前も食べて見ろ。美味しいぞ」
「まったく、中尉に見つかったらなんて言われるか…」
「中尉にはナイショだぞ。その口止め料も含めてお前にも食べさせてるんだからな」
 そう言うロイにハボックは深いため息をつく。あの焔の錬金術師というからさぞかし立派な人だろうと、期待してやってくれば、配属先の上官はとんでもない男だった。とにかく、いかにして仕事をサボるかと言う事が思考の大半を占めているといっても過言ではない。年がら年中姿をくらませては、副官の中尉の怒りを買っている。視察にでれば若い女性達に楽しげに声をかけ、大好きなケーキを食べ歩き…。
(この人があのイシュヴァールの英雄、焔の錬金術師だなんて、なんかの間違いじゃないのか?)
 ハボックが目の前のケーキを突きながらそう思っていると。
「こうして2人で座っていると、デートみたいだな、ジーン」
 身を寄せてきたロイがそんなことを耳元で囁くから、ハボックはぶん殴りそうになる自分を押し留めるのに必死だった。


→ 第二章