前編


「ああ、もう、うぜぇ…」
 目の上にかかる髪をかき上げてペンを走らせるハボックを向かいの席から見て、ブレダが言った。
「ハボ、お前、髪伸びてねぇ?」
「んあ、切りに行く暇がないんだよ」
 ここんとこ忙しくてさ、と言うハボックにブレダも頷いた。
「だよなー。人使い荒すぎだよ。基本的に人手が足りないんだよな」
「そうそう。ああ、多重影分身の術が使えたらなぁ」
「どこのマンガの世界だよ」
 半ば本気でぼやいているハボックにブレダは苦笑すると書類に視線を戻す。いくら文句を言ったところで仕事が減る訳でない以上、任せられた仕事はやらなければならない。受けた以上、出来ないなどと言うのはプライドが赦さないという気持ちもあった。
「あっ、やべっ、訓練の時間じゃんっ!」
 ハボックは時計を見てがたりと席を立った。煩そうに前髪をかき上げて「うー」と唸った後、ブレダに聞く。
「なあ、輪ゴムか何か持ってねぇ?」
「輪ゴム?」
「髪の毛がウザイ」
 言われてブレダはごそごそと引き出しの中をかき回した。
「あった」
「くれ」
 差し出される手に輪ゴムを載せながらブレダが言う。
「別にやるのはいいけどよ、輪ゴムで髪をとめるのはどうかと思うぜ」
「なんで?別におしゃれしようとしてるわけじゃないんだから、なんだっていいじゃん」
 そう言って受け取った輪ゴムで額の少し上で前髪を一つ、首の後ろで襟足の髪を一つ、ハボックは手早く髪を纏めた。
「いや、そういうことじゃなくて…」
 輪ゴムで髪を止めたら後が大変な事になるのではないかと思ったのだが、そう告げる間もなく髪を止めてしまったハボックに、ブレダはまあいいかと肩をすくめたのだった。

「あー、疲れた…」
 数時間後、戻ってきたハボックにブレダは顔を顰める。
「お前、汗臭いよ」
「だって、シャワー浴びる暇ないんだもん」
 そう言って書類を手に取るハボックをブレダは見つめた。輪ゴムで止めた髪は汗と埃でボサボサとますますスゴイことになっている。
「すげぇな、髪」
「隊の連中に笑われた」
「そりゃそうだろうよ」
 呆れたため息を洩らすブレダを軽く睨みつけてハボックは上目遣いに自分の前髪を見上げた。
「早く切ってこよう」
「そうしろ」
 独り言のように言い合って、お互い書類へと没頭していく2人だった。

「大佐っ、先にシャワー使ってもいいっスか?」
 いつもならロイの世話を先に焼きたがるハボックが家に入るなりそう言う。かなり薄汚れた感じのハボックに、流石のロイも二つ返事で頷いた。
「そうしろ。汚いぞ、お前」
「そう思うならシャワー浴びる時間取れるくらいに仕事減らしてくださいよ」
 ぶつぶつ言いながら浴室へ入っていくハボックの背を睨みつけて、ロイはリビングへ行くとソファーへ腰を下ろす。側に置いてあった本を広げて読み始めたロイの耳に、なにやら情けない声が聞こえてきた。
「ハボック?」
 ロイは首を傾げると本を置き、浴室へと入っていった。
「どうした?」
 そう言って鏡の前に立つハボックを見れば。
「たいさぁ、取れないっス…」
 上半身裸で鏡に顔をくっつけるように覗き込んでいたハボックは肩越しにロイを振り返ると情けない声を上げる。その髪の毛の先は結んでいた輪ゴムにものの見事に絡んで酷い事になっていた。ロイは目を丸くするとハボックの方へ手を伸ばした。
「見せてみろ」
 そう言って、ぐちゃぐちゃに絡んだ髪を見る。
「バカだな、なんで輪ゴムなんかで止めたんだ」
「だって、鬱陶しかったから…」
「輪ゴムで止めたら後で取るのが大変だと思わなかったのか?」
 そう言って髪をゴムから外そうとすると、ハボックが顔を歪めて痛がるのに、ロイはため息をつくと言った。
「いっそばっさり切るか?」
「やめてくださいよっ」
 結んだ髪をそのまま切ったりしたら、目も当てられない事になるのは判りきっている。
「だったら少し我慢しろ」
 ロイはそう言うと、そっとハボックの髪を輪ゴムから解いていくのだった。

「取れたぞ」
 前髪だけでなく後ろも散々な事になっていたため、ようやく輪ゴムが取れたときには30分以上たっていた。
「…ありがとうございます」
「全く、少しは先のことも考えて行動しろ」
 ロイは呆れたようにため息をついたが、その時自分を振り向いたハボックにドキリとして目を瞠る。「ごめんなさい」と呟くハボックは髪を解く際に散々引っ張られた痛みを我慢して、うっすらと目に涙を滲ませていた。寒い浴室で長いこと半裸でいた為、微かに震える唇にロイはごくりと唾を飲み込む。
「ハボ…」
 そう囁いて抱きしめようとした途端。
「ふあっくしょんっっ!!」
 盛大にクシャミをするとぶるりと体を震わせたハボックは「風呂、入ってきます!」と風呂場に飛び込んでしまう。
「ちっ」
 バタンと閉められたドアにロイは残念そうに舌を鳴らした。


→ 後編