| 「そうか、結局お前も私を拒むのか」 そう言った大佐の声には怒りも憎しみも籠もってはいなかった。ただ深い悲しみだけに彩られた声がオレの遠い意識の中で聞こえてくる。 「違うっ、そうじゃないっス!」 オレが漸くその言葉を口にした時には既にもう大佐の姿はなく、それ以来大佐はオレの前からふっつりと姿を消した。 |
| 辿り着くはパナケイアの空 第一章 |
| 「おい、ハボ。今度来る上官の話、もう聞いたか?」 「ん?ああ、名前だけはな」 ガチャリと司令室の扉を開けるなりそう問いかけてくるブレダにオレは答える。だらしなく椅子に寄りかかって煙草の煙を吐き出すオレの向かいの席に腰を下ろして、ブレダは言った。 「イシュヴァールの英雄、あの焔の錬金術師だろ?そんなのがどうして東方司令部に来るんだ?」 「さあな、上のことはよく判んねぇよ」 まるで興味なさそうに言えばブレダが不満げに顔を顰めた。 「んだよ、相変わらず淡泊だなぁ、お前」 「だって本当の事だもん」 「そりゃそうだけど、もう少し興味示せよ」 直属の上司だぜ、と呆れたように言うブレダにオレは笑う。 「少なくともこの間の奴よりマシなら文句ありませーん」 「あ、それは言えてる」 そう言いたくなるほどについこの間までオレ達の上にいた奴は酷かった。ヒステリックで独善的、気に入られればいいが嫌われたら最後だ。そして非常に素直なオレの性格ではそんな上司の元でやっていける筈もなく、もう半分司令部を追い出されたような状態での今回の人事だったのだ。 ブレダは思いっきりオレの言葉に頷いて言う。 「まぁ、少なくともアレより酷いって事はないわな」 「そうそう、アレに比べれば誰が来ても絶対マシ」 自分達より何階級も上の相手をアレ呼ばわりしてオレ達は今度の異動の話を終えた。 オレの名はジャン・ハボック。東方司令部司令室所属の少尉だ。そうして今のオレ達の会話からも判るように、今度この司令室の長は新しく来る国家錬金術師になると決まっていた。ブレダにはまるで気がないフリをして見せたものの、本当はオレは今度来る上官に興味ありありだった。何故ならオレの今回の仕事に関係があったからだ。オレの仕事、軍部内の危険分子の監視って奴に。 『今度お前んとこに行くの、ロイ・マスタングって言って俺の古い友人でさ』 と、オレの影の上官であるセントラルのマース・ヒューズ中佐は言った。 『お前も名前くらい知ってるだろう?』 『焔の錬金術師っしょ?噂は聞いてますよ、すげぇ焔操る錬金術師だって』 オレがそう答えれば中佐が電話の向こうで苦笑する気配がする。 『そ。んで、でかい力を持った奴が疎まれるのは世の常でな』 要は強大な力を持った人間を国家の中枢に近いところに置くことを恐れての今回の人事らしい。そして遠ざけるだけでは安心できない連中は、マスタング大佐に監視をつける事にしたのだった。それが今回のオレの役目。オレは東方司令部にありながら情報部所属のヒューズ中佐の命令によって、特定の人物の監視をしたりその動向を探って逐一報告したりするのを仕事としていた。要するに内部スパイって奴だ。いつもそういう仕事があるわけじゃなかったし、実際この間までここにいた腐れ上司の下では、ごく普通に少尉としての職務を全うしていた。正直もうこんな仕事は来ないんじゃないかと思うくらいご無沙汰だったのだ。だが。 『ロイはさ、いい奴なんだよ。それが錬金術師だって事だけで目ぇつけられてる。国家錬金術師として二つ名で軍に縛り付けてるくせにそれだけじゃ心配で、遠くにとばして監視までつけようとしてるんだよ』 『中佐』 『大事な友人なんだ。適当な奴に監視を任せるわけにはいかねぇ。……ハボック、頼むよ』 正直、この人の下についてこんな切羽詰まった声は聞いたことがない。 『判ったっス。オレに任せて下さい』 オレがそう答えれば、中佐がホッとしたように笑った。 「それにしてもどんな人なんだろう」 プカリと煙を吐き出しながら言うともなく呟けば、向かいの席で書類と格闘していたブレダが顔を上げる。ブレダはペンの尻で頭をコツコツと叩きながら言った。 「あのイシュヴァールで相手を殲滅したって言うじゃないか。そりゃすっげぇゴツくてデカい人なんじゃねぇか?」 さっきはまるで興味がなさそうだったオレが、俄に気にし始めた様子なのに喜んだようにブレダが答える。ブレダが言った人物像を頭に描いて、オレは思い切り顔を顰めた。 (そんな人が中佐の親友?想像つかねぇんだけど) 心の中でそう思えば、オレのしかめっ面を見てブレダが言う。 「そういやお前、護衛官だったな。まぁ、頑張れや」 「……オレが気に入られなければお前にお鉢が回る可能性だってあるんだからな」 なにせ上官に嫌われる事には自信がある。オレが歯を剥いて言えばブレダが答えた。 「まあ、くれぐれもそうならないようにな。下手すりゃ燃やされるかもしれないぜ?」 「……まさか」 いくら焔を操るからといって、気に入らない相手を逐一燃やしたりはしないだろう。オレがそう言えばブレダがにやにやとしながら言った。 「判んねぇぜ。それが嫌ならちゃんと気に入られるように努力しろよ。少なくとも初っ端から咥え煙草で会うような真似はするなよ」 ブレダに寝ている時と食べている時以外は咥えている煙草を指さされて、オレはムゥと唇を突き出す。煙草を揉み消しガタンと立ち上がった。 「ちょっと散歩してくる」 「ちったぁ働け」 途端にそう返すブレダに、オレは思い切りベェと舌を突き出すと、司令室を後にしたのだった。 「ブレダが変なこというから」 オレはなんだか急にこみ上げてきた不安に追い立てられるように司令部の廊下を歩いていく。中佐の親友だと聞けば、たとえ危険分子扱いされていたとしても特に不安はなかった。だが、あんな言い方をされたら心配するなと言われても気になってしまう。オレは心の中でブレダを罵りながら階段を下り、中庭への扉をくぐった。新緑の季節を迎えた庭は鮮やかな緑が溢れていて、ここが軍の施設だと言うことを忘れてしまいそうになる。普段サボる時の指定席と決めている木の下に向かったオレは、そこに先客がいる事に気づいた。 木の幹に寄りかかって膝の上に大きな古書を広げた男は風に黒髪を嬲らせて目を閉じている。てっきり眠っているのかと思ったオレがそっと近づいていくと、不意に男が目を開けてオレを見た。 男の瞳は真っ黒でその瞳が食い入るようにオレを見つめる。その視線に射ぬかれてしまうのではないかと思った時、男がフッと笑って言った。 「ここは気持ちのいい場所だな。つい眠たくなる」 男はそう言いながら頭上に向かって腕を突き上げる。うーんと伸びをして首をグリグリと回してから言った。 「もしかして指定席を勝手に使ってたか?すまなかったな」 「や、別にオレの場所ってマークつけてるわけじゃねぇっスから」 男は軍服を着ておらず階級が判らない。一応失礼にならない程度の言葉で返したものの、若そうなその顔からオレと同年代かと思われた。 「ええと、どこの司令部の方っスか?見かけない顔っスよね」 探るように尋ねれば男が意外そうにオレを見る。 「ここの司令部の人間の顔を逐一覚えているのか?」 「覚えちゃいないっスけど、少なくともアンタみたいな男がいたら絶対覚えてると思うっスもん」 そう言えば男の顔が僅かに陰った。 「それは私が恐ろしいと言う意味か?」 低い声で囁くように尋ねられ、オレは驚きに目を瞠る。男の顔は端正で、その強い光を放つ黒曜石の瞳を持ってしてもその美しさを損なうものではなかった。 「なに言ってるんスか?いい男だって事っスよ」 変なことを言う奴だと思いながらオレが言えば男は目を見開く。ククッと笑うと本を手に立ち上がった。 「今日は書類を提出がてら挨拶に寄ったんだよ。着任は来週だ、その時はよろしく頼む」 「はあ、どうも」 男が言って差し出す手を反射的に握り返す。そうすればニッと笑って男は中庭から出ていった。 「あ、名前」 よろしく頼むはいいけれど、お互い名前すら名乗っていない。 「ま、いいか。来週になったら判るだろうし」 あの男が着任すれば嫌でも判るだろう。オレはそう考えて肩を竦めたのだった。 |
→ 第二章 |