久遠の空  第五十一章


『ねぇ、クリス。そのナイフ、オレにも使わせて』
 ハボックはテーブルの上に身を乗り出して姉に強請る。丁寧に刃を手入れしたナイフを鞘に納めながらクリスは答えた。
『駄目よ。アンタには貸せないわ』
『ケチーッ!クリスのケチッ!意地悪ッ』
 素っ気ない言葉にハボックはまだ丸みの残る頬を膨らませる。ぶーっとむくれる弟に、クリスは笑って言った。
『別に意地悪して言ってる訳じゃないわ。アンタだけじゃない、他の誰にも貸せないの。このナイフは特別だから』
『特別?』
 言われてハボックは膨らませていた頬を引っ込めて首を傾げる。自分と同じ空色を見返して、クリスは答えた。
『このナイフは私を護ってくれるの』
『悪い奴をやっつけるってこと?』
『そうね、ちょっと違うけどそんな感じかしら』
 クリスの答えによく判らないと眉を寄せる弟に、クリスはクスクスと笑う。手を伸ばして眉間の皺を伸ばして、クリスは言った。
『いつかアンタにも判るわ。さあ、ジャン。マーフィさんのところへ行くわよ。リンゴを分けて貰えることになってるの』
『リンゴ?パイ作って、クリス!リンゴパイ!』
 鞘に納めたナイフを腰のベルトに挟み込むと、クリスはリンゴと聞いて顔を輝かせる弟の手を引いて家を出ていった。


 ポタリとハボックの足下に紅い滴が落ちる。間近から見つめてくる大きく見開いたガルシアの瞳を見返して、ハボックは笑みを浮かべた。
「ガルシア……もう、やめよう。ね……?」
 囁くように告げるハボックにガルシアは顔を歪める。ゆるゆると首を振るガルシアのナイフを握り締めた手を優しく撫でてハボックは言った。
「帰ろう、クリスが待ってる。このナイフはクリスにとって特別なものなんだ。だからクリスに届けなきゃ」
 ハボックは言って、己の腹に深々と刺さったナイフを見下ろす。腹からは殆ど血が出ておらず、そのせいでナイフはどこか玩具のように見えた。
「ハボック……俺は……俺は……ッッ」
「うん、判ってる。判ってるよ、ガルシア」
 ハボックは言ってガルシアの頭をそっと抱き締める。小刻みに震えるガルシアの体を宥めるように撫でて、ハボックは言った。
「オレなら大丈夫、心配しないで」
 ハボックは抱き締めたガルシアの耳元にそう囁く。暫くの間そうしてガルシアを優しく抱き締めていたが、やがて大きく息を吐き出して言った。
「行こう。帰るんだ、オレたちの故郷に」
 ハボックはガルシアを促すようにして一歩を踏み出す。その途端、グラリと傾ぐ体をガルシアが慌てて支えた。
「ハボックっ」
「ごめん、平気。でも、ちょっと手貸してくれる?」
 言って笑うハボックにガルシアは肩を貸す。ゆっくりと歩きながらハボックが言った。
「村に帰ったら……クリスにナイフ届けて……。それからいっぱい花を植えよう。果物の苗木も植えて……燃えちゃったから今は何もないんだろう?」
 聞かれて、ガルシアは頷く。一人訪れた故郷の村を思い出しながら言った。
「あるのは生い茂った雑草と瓦礫ばかりだ。何もない、もう、何も……」
 低く呟くガルシアにハボックが笑みを浮かべる。
「そっか……だったらリンゴの木を植えなきゃ……。クリスが作るリンゴパイ……大好きだったんだ……」
 懐かしそうに目を細めてハボックは工場の扉を抜けて歩く。ガルシアに支えられて、ハボックはゆっくりと歩き続けた。
「リンゴの木を植えて……畑作って……ああ、牛も飼おう。馬もいいな……オレ、結構金貯まってるから……」
 色々飼える、とハボックは笑みを零す。ポツポツと言葉を吐き出しながら足を進めて行けば、やがてイーストシティの駅舎が見えてきた。
「最終電車、出ちまったかな……」
 駅はまだ灯りがついている。改札をくぐればまだ黒い巨体がホームに停まっているのを見て、ハボックがホッと息を吐いた時、発車のベルが鳴り響いた。
「急げ、歩けるか?」
「うん……」
 ガルシアにしがみつくようにしてハボックは足を早める。ベルが鳴り終わるのと同時に列車に乗り込むと、二人は手近の座席に腰を下ろした。
「大丈夫か、ハボック」
「うん、平気」
 心配そうに覗き込んでくるガルシアにハボックは笑みを浮かべて答える。上着の前をあわせてナイフを隠して、ハボックは窓に頭を預けた。
「へいき……でも、ちょっと疲れちゃった……」
 呟くように言って、ハボックは大きく息を吐き出す。眠るまいとするように数度瞬いたハボックの唇からもう一つ大きな吐息が零れて、金色の睫に縁取られた瞼が空色の瞳を覆った。


 鳴り響く目覚まし時計の音に、ロイは眉を顰めて起きあがる。枕元の時計を乱暴に叩いて黙らせると、ロイはガシガシと頭を掻いた。夕べはあまりよく眠れず、まだ頭の芯が半分眠っているような状態だ。ベッドからおり寝室と続きの洗面所へと行ったロイは、冷たい水で顔を洗って眠気を追いやりフウと大きく息を吐き出した。
「おはよう、ジャン」
 ベッドの枕元で大欠伸をする子猫の頭を撫でてロイは言う。子猫を抱き上げ階下におりると、ロイはキッチンでコーヒーをセットした。コーヒーが落ちる間に新聞を取ってくる。子猫の為に皿に餌を出して子猫と一緒にテーブルに乗せた。
「朝からよくそんなに食えるな」
 途端に皿に顔を突っ込んでガツガツと食べ始める子猫の様子に苦笑して、ロイはコーヒーをカップに注いでダイニングの椅子につく。新聞を広げコーヒーを飲みながら新聞に目を通した。コーヒーの香りが漂う部屋の中、時折ロイが新聞をめくる音が響く。ざっと目を通し終えるとカップをシンクに入れ、身支度を整えてロイは毛繕いする子猫を抱き上げた。
「行くぞ、ジャン。今日も書類と睨めっこだ」
 やれやれとため息をついて、ロイは迎えの車に乗り込み司令部へと向かった。


 ガタンと大きく列車が揺れて、ハボックは目を開く。向かいの席を見れば、ガルシアが列車の揺れに体を任せて眠っていた。
 ハボックはガルシアに向けていた目を窓の外へと向ける。窓の外には夜明けの空が広がって、ハボックは目を細めて柔らかな色の空を見上げた。
(大佐……)
 ハボックは脳裏に浮かぶ黒曜石に向かって呼びかける。そうすればほわりと胸が暖かくなる気がした。
(村に帰ったら……クリスにアンタの話をしますね……。ナイフ返して……リンゴの木植えて……村に人が住めるようになったら、そしたらアンタ呼ぶから……。一緒にリンゴパイ、食べたいな……)
 そんな先の未来を思い描いてハボックは微笑んだ。
(村が元通りになったら……そしたらまた大佐んとこで働きたいな、ウルフと一緒に……。大佐、ねぇ、オレの事、飼ってくれるんでしょ……?頑張って、村を元に戻したら、そうしたら……)
(大佐……オレは)
 ぼんやりと霞む視界に浮かぶロイに呼びかけて、ハボックは目を閉じる。列車が大きく揺れて、腹に乗せていたハボックの手がパタリと座席のシートに落ちた。


「おはようございます、大佐!」
「おはよう、ウルフ。みんな」
 司令室の扉を開ければ途端に飛び出してきたウルフの声に、ロイは笑みを浮かべて答える。部屋の中を見回してもう一つ金髪の頭が見えない事に、ロイは眉を寄せて言った。
「ハボックはまだか?」
「そう言えば遅いですね」
 ロイの言葉に答えて、フュリーが壁の時計を見上げて言う。ウルフは昨日帰り際に慌てて仕上げた書類を読み返しながら言った。
「寝坊じゃないっスか?────あっ、ここ、間違えてる」
 誤字を見つけて騒ぐウルフの声を聞きながらロイは執務室に入る。いつものようにチョコの缶に子猫を下ろすと窓に近づいて空を見上げた。綺麗な空はまだ来ていない部下の瞳を思い起こさせてロイは目を細める。執務室の扉に向かい、少し開けるとウルフに言った。
「ハボックが来たら私のところへ来るように言ってくれ」
「了解っス。……カッター借りちゃおう」
 言ってすぐまた執務室に引っ込んでしまうロイに答えながらウルフは立ち上がりハボックの席に回ると抽斗を開ける。中からカッターを取り出したウルフは、猫の飾りがついたキーホルダーを見つけて摘み上げた。
「可愛いの持ってんなぁ」
 しげしげと見つめたそれを戻してウルフは抽斗を閉める。カッターで間違えた文字を削って正しい文字を書き込んだ。今度こそ誤字がないと確かめて、ウルフは書類を手に執務室に向かう。ノックをして中に入れば窓際で空を見上げるロイの姿に、ウルフは首を傾げた。
「大佐?」
「あ?ああ、サインか」
 呼びかける声に振り向いて、ロイは席に座る。ロイに書類を差し出しながらウルフが尋ねた。
「どうかしたんスか?」
「いや……なんでもない」
 ロイは答えて書類にサインを書き込む。礼を言って書類を受け取ってウルフが言った。
「ねぇ、今度また飲みに行きましょうよ。ハボックと三人で」
「お前が字を間違えずに書類を書けたらな。削ったところがかなり薄くなってるぞ」
「えー、指摘される前に直したんスから勘弁して下さいよ」
 ウルフは情けなく眉を下げて訴える。書類を手に出ていくウルフの背中を見送ったロイはもう一度空に目を向けた。
「綺麗な空だな」
 そう言って子猫の背を撫でたロイが見上げた空は、どこまでも果てしなく広がっていた。


2014/04/22


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はたかぜさまからリク頂きました「ロイハボで人魚姫」です。「“ハボとロイが何らかのかかわりを持つ → でもハボだと気づかない”で、広ーく広ーく考えていただければ」と言う優しいお言葉を頂いたので私なりに人魚姫をベースに考えてみましたー。正直「ロイが自分を助けたのがハボだと気付かない」って以外どこが人魚姫だーッって言われそうですが……。人魚姫の最後は王子を殺せずに海に身を投げて泡になって消えてしまうので、ハボックもロイの前から消えるという形にしました。ハボックが無事故郷に辿りついたのか、その後については皆さまのご想像にお任せということで。「これで終わりか??」って言われそうな気もいたしますが(苦笑)ともあれ、「切ないお話を」と言う事で頑張ってみましたがいかがでしたでしょうか。少しでもお楽しみ頂けましたのなら嬉しいですー。
はたかぜさま、私では思いつかないリク、とても楽しく書かせて頂きましたvありがとうございましたvv