金狼  中編



「これをつけておけば、じき腫れが引きますから」
 青年はロイの脚に包帯を巻くとそう言った。
「重ね重ねすまないな。本当にありがとう」
 ロイがそう言うと、青年は照れたように頬を染めた。
「私はロイ・マスタングだ」
 ロイがそう言うと青年はほんの少し躊躇った後、口を開いた。
「オレはジャン・ハボック」
 ハボックはそう言ってキッチンへ入るとコーヒーを落とし始めた。コーヒーのいい香りが部屋に漂う中、ロイは暫く黙っていたが、やがてハボックを見つめると聞いた。
「君は一人でここに住んでいるのかい?」
「ええ、もう少し先に一族の住む集落があるんですけど
 オレはここの方が気楽なんで、と言うと、ハボックはコーヒーをカップに注ぐ。そうして何も聞かずに砂糖と多めのミルクを入れるとロイに差し出した。
「よく、私の好みが判ったな」
「え?あ、いや…なんとなく」
 ハボックは困ったように笑うとロイに言った。
「今日は歩くのシンドイでしょ。泊まっていくといいっスよ」
 ロイはそう言われて考えるように指を唇に当てた。
「私がここにいるのを連絡しておきたいんだが、電話を貸してもらえないか」
 ロイに言われてハボックは首を振る。
「すんません、ここには電話、ないんスよ」
「そうなのか…困ったな…」
 休暇中とはいえ、司令官であるロイはその所在をハッキリさせておく必要がある。宿を出たきり行方がわからないのでは、司令部のホークアイ達が心配するだろう。
「宿の連中にアンタがここにいるって伝えればいいっスか?」
 困った様子のロイにハボックが不意に言う。
「だが、電話はないんだろう?」
 ロイが不思議そうに聞くとハボックが笑いながら言った。
「まあ…でも方法がないでもないんで」
 ちゃんと伝えておきますから、と言うハボックにロイは頷くしかなかった。


「マスタングさんは何をしにここへ?」
 テーブルを挟んで夕食をとりながらハボックが聞いた。
「君は金色の狼の伝説を聞いたことがあるかい?」
 逆にロイに問い返されてハボックは暫く黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「ああ、そういえばこの辺にはそんな伝説がありますね」
「森の守り神なんだろう?」
「そういう話ですね」
「人間に変身するとか」
 そう言ってロイはハボックをじっと見つめた。
「君に会う前に金色の毛に空色の瞳の狼を見たんだ」
「オレは狼じゃないっスよ」
 ハボックは苦笑すると言った。
「アンタは人間に変身する狼がいるなんて信じてるんスか?」
 そう聞かれてロイは答える。
「そうだな、もしいるなら会ってみたいと思うよ。それに友人の娘に写真を撮ってきてくれと頼まれているんだ」
「写真?」
「ああ、彼女は金色の狼さんに会いたいと言っているよ」
「へえ?」
 どことなく楽しそうに答えるハボックにロイも知らず微笑んでいた。


「これなら無理しなければ大丈夫そうですね」
 翌朝、ハボックはロイの脚の包帯を替えながらそう言った。
「宿に帰るくらいなら平気ですよ」
「そのことなんだが」
 宿のことを出されてロイは自分の足元に跪くハボックを見て言った。
「もう一晩、泊めてもらえないだろうか」
 ハボックは不思議そうな顔をしてロイを見上げた。自分を見つめてくる空色の瞳を何て綺麗なんだろうと頭の隅で考えながらロイは言葉を続けた。
「こちらにいられるのはどうせ明日までだし、もし出来たらこの森の中を案内してもらえないか」
「…オレ、宿に帰るくらいなら歩いても平気だっていいましたよね」
「もう痛みもないし、大丈夫だ」
「この辺の森は道も整備されてないんスよ」
「…ダメか?」
 がっかりした顔をするロイにハボックはため息をつくと答えた。
「少しでも違和感を感じたらすぐ言ってくれます?」
「勿論だ。迷惑はかけないよ」
 こういうことを言い出すこと自体が迷惑だとは思わないのだろうかとハボックは思ったが、ハボックに案内して貰えるのだと顔を輝かせているロイを見て、まあいいかと思い直す。
「それならまず飯を食って、それから簡単な弁当つくりますから。そしたら出かけましょう」
 ハボックは立ち上がりながらそう言うと、救急箱を片付けキッチンへと入っていった。


「綺麗な森だな。殆んど人の手が入ってないだろう?」
「そっスね。代々オレの一族が森番つか森をみてるんですけど、まあ、よっぽどのことがなければ何もしないっつうか」
 ハボックは道があるのかないのかよく判らない木々の間を迷いなく歩いていく。時折立ち止まっては途中に見えた木や花の名前、鳥のことなんかを教えてくれた。ロイはハボックの耳に心地よい声を聞きながら風に揺れる木々の音、遠くに聞こえる鳥の声に耳を傾けた。そうして歩いている内に微かな水音が聞こえてくるのに気がつく。
「ちっさい滝があるんスよ」
 ハボックはそう言うと木の枝を押し上げて中へと入っていく。木々を押し分けて歩く内、さっきはあれでも道があったのだとロイにも判った。
「こっちです」
 ハボックが枝を持ち上げていてくれるその下を掻い潜ってロイが顔を出した途端、細かな水しぶきが顔にかかる。驚いて見上げる先に半ば凍りついた小さな滝があった。半透明な氷の柱と化した滝の表面を僅かな水が流れていく。太陽の光をうけてキラキラと輝くそれは、天然の宝石のようだった。
「すごい…」
 目を見開いて滝を見上げるロイをハボックは嬉しそうに見つめると言った。
「全部凍る年もあるんですけどね。今年は少し暖かいみたいだ」
「綺麗だな…」
「もう少し側に行ってみます?」
「行けるのか?」
「行けますよ。足元に気をつけて」
 ハボックが差し出す手に掴まってロイは滝へと近づいていく。手を伸ばせば触れそうなところまでやってくると、周りの空気がぐっと冷たくなったような気がした。
「急に寒くなったみたいだな」
「冷蔵庫の中に立ってるみたいなものっスからね」
そ れでも暫くの間黙って滝を見上げていたが、流石にロイがぶるりと身を震わせるのを見てハボックが言った。
「そろそろ行きましょうか」
「…ああ」
 名残惜しげなロイを促してハボックは滝から離れた。そうしてまた、森の中の道をゆっくりと歩いていく。
「これから先、少し上りが続くんですけど、足、大丈夫っスか?」
 ハボックに聞かれてロイは足のことなどすっかり忘れていたのに気がついた。
「はは、それなら大丈夫っスね」
 でも油断はダメっスよ、と肩越しに振り向いて笑うハボックの瞳にロイは引き寄せられるように思わずその腕を掴んでいた。
「…っ」
 びくっと体を震わせてロイを見下ろしてくる空色の瞳に、ロイはハッとなって腕を離す。
「あ…悪い…」
 何を言っていいか判らず呟くようにそう言ったロイをハボックは何も言わずに見つめていたが、やがてまた歩き出した。暫くの間お互い何も言わずに坂道を上っていく。ロイはなぜそんな行動に出てしまったのか、自分でも皆目見当がつかなかった。
「もう少しですから」
 不意にハボックの声が聞こえ、坂が多少緩やかになったのに気づく。数分後、木がまばらになり、開けた丘のような場所に出た。そうして眼下に広がる景色にロイは目を瞠った。
 少しずつ緑の色合いを変えながら連なる森。その間をきらきらと細く光るものがうねうねと走っているのは川だろうか。そしてその森に抱かれるようにひっそりと広がる集落。
「あれは…」
「オレの一族が住む集落です」
 ロイは並んで立つハボックに聞いた。
「君はあそこには住まないのか?何故一人で?」
 立ち入ったことを聞いているのかもしれない。長い沈黙に答えは返ってこないのだろうとロイが思った時、ハボックが口を開いた。
「あそこはオレには息苦しくて…だから」
 それに、とハボックは囁くように言葉を続ける。
「オレは待っているのかもしれない。オレをあそこから連れ出してくれる誰かを」
 ハッとして振り仰いだハボックの顔は昏く沈んで別人のようだった。ロイが返す言葉を見つけられずに黙りこくっていると、ハボックは集落に背をむけた。
「メシにしましょうか」
 そう言って歩き出すハボックは明るく微笑んでおり、この2日間でロイが知ったそれだった。だが、ロイには一瞬見せたハボックのあの表情がどうしても忘れられなかった。それでも二人並んで腰を下ろすと、ハボックが用意したサンドイッチを頬張る。柔らかい陽射しの中、キラキラと光る髪をそよがせて、ハボックはロイを見つめると言った。
「マスタングさんはここに来てよかったっスか?」
「ああ、勿論だよ」
 聞かれて即答するロイにハボックは微笑む。
「君とも会えたし」
「オレ?」
「そう。また会いに来てもいいか?」
 ロイがそう聞くとハボックは淋しそうに笑った。
「こんな田舎のことなんて帰ったら忘れちまいますよ。マスタングさん、忙しそうな人だし」
「忘れたりするものか」
 ムッとして言い返すロイにハボックは何も答えずにただ笑った。そうして立ち上がるとロイを見ずに言う。
「もう行きましょう。日が暮れるのが早い季節だし、夕方はぐっと冷え込む」
 ハボックはそう言うとロイの返事を待たずに歩き出したのだった。


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