金狼  前編



「で、もう聞いたか、あの噂」
「ああ、東部の片田舎に金色の狼が出るって話だろう」
 ロイはバーテンダーが差し出したグラスを受け取ると答えた。
「そうそう、しかもその金色の狼が人間に変身するっていうんだぜ」
 同じようにバーテンから受け取ったグラスに口を付けながらヒューズが楽しそうに答える。今夜、ロイは出張に来たセントラルで、ヒューズと一緒になじみのバーで酒を酌み交わしているところだった。ロイはグラスを口に運びながらウンザリとした顔をして言った。
「くだらん、ただの噂だろう。どうせちょっと珍しい狼を見たヤツが適当にでっちあげたのさ」
 眉を顰めてそう言うロイに、ヒューズは天井を仰いでため息をついた。
「やだねぇ、化学者ってのは夢がなくて」
「失礼なヤツだ、私だって夢くらいあるぞ」
「一番てっぺんまで登りつめるってか。それは夢じゃなくて野望って言うんだよ」
 唇を突き出して言うロイに、ヒューズはやれやれと首を振った。
「エリシアがさ、この話聞いてぜひ金色の狼さんに会いたいって言うんだよな」
 カワイイだろ、とだらしなく目尻を下げる親バカな親友に、ロイは答えずにぐいとグラスを呷った。
「でも流石に東部の片田舎まで連れて行ってやるわけにもいかないしさ」
 そう言って楽しそうに顔を寄せてくるヒューズに、ロイは何やら嫌な予感がして腰を浮かした。
「なあ、ロイ…」
「ロクでもないお願いなら聞かんぞ」
「久しぶりに休暇が取れたんだってな」
「もう予定が入ってる」
「どうせ家にこもって研究書を読むって言うんだろ」
「立派な予定だろうが」
 絶対に聞かないからな、という態度が見え見えのロイに、ヒューズは眼鏡を外すと取り出したハンカチでレンズを拭きながら言った。
「この間のポーカーでお前に貸しひとつだったよな」
「ヒューズ、汚いぞっ!」
「愛しいエリシアちゃんのためなら汚いと言われようと構わないぜ、俺は」
「ヒューズ!」
 ロイの叫びを無視してにっこりと笑うとヒューズはロイに言った。
「金色の狼の写真、撮ってきてくれるよな」
 楽しそうに言うヒューズに、ロイは絶句するしかなかった。


「全く、一体何が楽しくて、この私がいるかいないかも判らない狼の写真なんて撮りに来なくちゃいけないんだ」
 ロイはそう言いながら森の中の道をずんずん歩いていく。
 結局ロイは、ヒューズのお願いに負けて金狼の噂のある東部の片田舎へと休暇を使ってやってきていた。本当に久しぶりに取れたロイの休暇は5日。ここに来るには列車やバスを散々乗り継いでも丸一日がかりで、実質ロイの休暇は3日だけと言うことだった。
「しかもその貴重な3日間に狼が見つからなかったらどうするんだ」
 最初の一日目に運よく狼と会えれば後の二日はロイの好きに使える。だが、見つからなければ時間の許す限り探し回らなければならない。
「くそっ、金色の狼じゃなくても狐なり狸なりいてくれれば」
 そうすればその写真を撮って実は金色の狼なぞいなくて、狐を見間違えただけなのだとエリシアに伝えることが出来る。ロイがこんなところまで来たのは単にヒューズにポーカーでの負けをネタにお願いされたからだけでなく、金色の狼に夢を馳せるエリシアの為、と言うところが大きかった。ロイはひとつため息をつくと、昨夜宿で教えてもらった森の中の道ともいえない道を歩きながら、宿の主人の話を思い出していた。


「人間に変身する金色の狼ねぇ」
 主人はロイの前に夕食の皿を出しながら呟く。
「確かにこの辺には人狼伝説が沢山残っているよ。金色の狼は森の守り神で、森の中で迷った人間を助けてくれるとか、逆に森に悪さをしようとする人間を懲らしめて追い払うとか」
「人間に変身するのを見た人がいると聞いたが」
「判んないねぇ。私も随分長いことここに住んでいるがそんな狼には会ったことはないしなぁ。その噂が一時期ブームになった時には随分沢山見に来た連中がいたが、ソイツらがその狼を見たという話も聞かないし」
 昔から言い伝えられている場所があるにはあるけどあまり期待しない方がいいよ、そう言って主人はロイに金色の狼が住んでいるという森への道を教えてくれたのだった。


「はあ…少し休憩するか」
 ロイは深く息を吐くと、大きな木の根元に腰を下ろした。そうして宿で用意してもらった水筒の水を一口飲む。宿の女将が昼食にと包んでくれたパンを頬張りながら上を見上げれば、木々の間から覗く空は綺麗に澄んだ水色だった。
「そういえばこんな風に空を見上げるのも久しぶりだな…」
 最近は忙しくて空を見上げることすら忘れていた。ロイは木の幹に背を凭せ掛けて空を見つめる。久しぶりにのんびりと見上げた空は、ロイの心を穏やかにさせていった。
「もしかしたらヒューズのヤツもこれが狙いだったのかもな…」
 せっかくの休暇に家にこもって本を読むより、こうして森林浴でもしてのんびりして来いと、ヒューズは言いたかったのかもしれない。ロイはそんなことを考えながら空を見上げていたが、やがてゆっくりと立ち上がるとパンパンとズボンをはたいた。
「さて、ではもう少し捜すとするか」
 そう呟くとロイはゆっくりと歩き出す。そうして冬の冷たい空気の中、ロイはいつしか金色の狼にあうのを楽しみにしながら足を進めていた。


 そうして一体どれほど歩いただろう。帰りのこともそろそろ考えなくてはいけないとロイが思い始めた頃、ロイの視界を何かの影が横切った。
(なんだ?)
 不思議に思ったロイは足を速めて森の中を歩いていく。きょろきょろと辺りを見回してみたが何も見当たらず、気のせいだったかとロイが思った時、突然開けた視界の先の一段高くなった岩の上にその獣はすっくと立っていた。
「…!」
 雲合いから差し込む光にその美しい金色の毛を輝かせて立つその姿に、ロイは目を奪われた。
「金色の狼…」
 思わず漏れた呟きに狼の瞳がロイの方へ向けられた。狼には珍しい空色の瞳がロイの黒い瞳とぶつかったと思った瞬間、狼は身を翻して走り去ってしまう。
「…っ、待てっ!待ってくれっ!」
 呆然と見つめていたロイはハッと我に返ると狼の後を追った。狼が立っていた岩の上によじ登り辺りを見回すと、金色の尻尾が木々の間に消えていくのが見えた。
「あっちか!」
 慌てて滑り落ちるように岩を下りると狼が消えた森の中へと足を踏み入れた。
 ザザザ。
 木の枝の擦れる音を頼りにロイは必死に森の中を駆ける。はあはあと荒い息を吐いて生い茂る枝をかき分け走るロイの足元の地面が、突然ぽっかりと口を開けた。
「え?!」
 夢中で走っていたロイは生い茂った木々の向こうが崖になっている事に気づかなかったのだ。突然なくなった足元に、ロイの体が吸い込まれるように下へと落ちようとしたその瞬間。
「うわ…っ」
 力強い腕が伸びてロイの腕をがっしりと掴んでいた。驚いて振り仰いだロイの視界に飛び込んできたのは。
 金色の髪と空色の瞳を持つ長身の青年の姿だった。


 呆然と見上げるロイの体を腕一本で軽々とひきあげて、青年は取り敢えずもう落ちる危険のないところへロイを連れていった。そうして何も言わずにに立ち去ろうとするのをロイは慌てて引き止める。
「何か?」
 そう言って振り向いた青年はこの寒空の下、薄いシャツ一枚だった。輝く金色の髪を短く刈り上げ、金色の睫に縁取られた瞳は、空を切り取ったような澄んだ空色だった。青年は自分をじっと見つめたまま答えないロイに首を傾げたが、そのまま立ち去ろうとする。
「待て!」
 慌てて引き止めるロイを再度振り返った青年の姿にロイは心臓がとくりと鳴るのを感じながら、なんとか言葉を絞り出した。
「助けてくれてありがとう」
「この辺りは崖が多いから気をつけたほうがいいっスよ」
青 年がそれだけ言うとくるりと振り向いて歩き出そうとするのをロイは再び引き止めた。
「あ、あのっ」
 だが、引き止めたはいいが、続く言葉が出てこない。ロイはどうしていいか判らず、思わず一歩踏み出した。その途端足首に走った激痛にロイは思わず顔を歪める。
「あっ…つうっ」
 その場に蹲るロイに青年は近づいてくるとロイの顔を覗き込んで言った。
「足、痛めたんスか?」
「…捻ったみたいだ」
 そう呟いて顔を歪めるロイに青年は一瞬迷うような表情を浮かべたが、ロイの肩に腕を回すと言った。
「オレの家、この近くなんです。取り敢えず、そこで手当てを」
 そう言うとロイを支えて歩き出す青年の横顔をロイはじっと見つめるのだった。


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