それはとても特別な日


「あー、やっとこれで一息つける」
 ヒューズは司令部の廊下を歩きながら手を突き上げてウーンと伸びをする。一週間司令部に缶詰でかかりきりだった案件が漸く片づいて、ヒューズはホッと息を吐き出した。
「家帰ってシャワー浴びて寝るぞッ」
 その権利が自分にはあるはずだ。そう思いながら階段を下りたヒューズの耳に女性職員が話している声が聞こえてきた。
「おー、女の子たちは元気でいいねぇ」
 彼女たちが聞いたら「オヤジくさ〜い」と言われそうな事を呟いてヒューズは女性職員たちのすぐ側を通り過ぎる。その時、興奮した女性の声が耳に飛び込んできた。
「ちょっと聞いてよ、私の彼ってばホワイトデーの事忘れたのよ!」
 聞こえた言葉にヒューズはピタリと足を止める。怒り心頭の女性に他の女性が叫んだ。
「ええっ?ホントにっ?」
「信じらんないッ!」
「でしょう?有り得ないわよ、もう別れてやろうかしらッ!」
 プンプンと怒る女性にその場にいた全ての女性が同意する。
「どんなに仕事が忙しくてもホワイトデー忘れるなんてろくでもない男よ」
「そうよ、ちょっと考えた方がいいかも」
 女性たちの会話を聞いていたヒューズの眼鏡の奥の目が大きく見開かれて、次の瞬間ヒューズは大声を上げていた。
「あああッッ!!!」
 いきなり近くで聞こえた大声に女性たちがビックリして小さな悲鳴を上げる。何事?と見つめてくる女性たちにヒューズは「あっ、ごめん、なんでもないっ」と早口に言い訳してその場を離れながら時計を見た。
「えっ、ちょ……ッ、今日何日だよ、もしかして昨日ホワイトデー……?」
 そう呟くヒューズの脳裏にイーストシティにいるハボックの顔が浮かぶ。にっこりと笑うその笑顔を思い出して、ヒューズは青褪めた。
「やばい……忘れてた」
 一週間司令部に缶詰になっていたせいで、すっかり失念していた。と言うか、一週間前、この国の郵便事情を考えたらそろそろ送らないと間に合わないから今日あたり帰りに選んで送ろうと思っていた矢先、いきなり飛び込んできた案件でもの凄く忙しくなってしまい、コロッと忘れてしまったのだ。
「いやいや、そりゃこっちの言い訳だ」
 幾ら忙しくとも恋人同士の大事なイベント。特に自分たちのような遠距離恋愛では絶対に欠かせないシロモノだ。何があろうと忘れるなど以ての外。現にイーストシティのロイの下で日々走り回っているであろうハボックは、ちゃんとバレンタインデーの数日前にはチョコを送って寄越し、当日も夜遅く電話をくれていたのだ。
『こんな時間にすんません、でも……ちゃんと直接言いたくて』
 疲れの滲む、それでも愛情のこもったハボックの声が脳裏に蘇る。
『……好きっス。これまでもこれからもずっと、中佐のことが好き……』
 恥ずかしそうに呟いて『じゃあっ』と切ろうとするのを慌てて引き留めた。『俺も好きだぜ、ジャン』と囁けば顔を見られずとも真っ赤になったのであろう息遣いが聞こえて、ヒューズは嬉しくて受話器越し何度もキスを送ったのに。
「やばいやばい、有り得ねぇ……っ」
 確かに彼女たちの言うように絶対に有り得ない、あってはならない失態だ。
「と、とにかくすぐ電話して……ッ」
 思い切り勤務時間中だがこの際そんなことは言っていられない。ヒューズは一刻も早く電話しようと、今出てきた筈の執務室に向かって一目散に走り出した。


(結局来なかったな、クッキー……電話すら)
 ハボックはバタンとロッカーの扉を閉めてため息をつく。そうすればすぐ側にいた部下のマイクが心配そうにハボックに声をかけた。
「どうかしたんですか?隊長」
「えっ?」
「演習中も元気ありませんでしたし」
 そう言われて俯けていた顔を上げると他の部下たちも心配そうにハボックを見つめている。ハボックは無理矢理に笑顔を作って首を振ると言った。
「別になんでもねぇよ!ちょっと考えごとしてただけでっ」
「そうなんですか?俺たちで力になれることがあるんでしたらいつでも協力しますよ?」
 マイクの言葉に周りにいた部下たちが「そうだ」だの「なんでも言って下さい」だのと声を上げる。ハボックはそれに笑みを返して言った。
「ありがとう、みんな。でも大丈夫だから。心配かけてほんとごめん」
 ハボックの言葉に部下たちは顔を見合わせたもののそれ以上は何も言わないでくれる。ハボックは無理矢理笑みを浮かべると「じゃあ」と手をあげてロッカールームを出た。
(なにやってんだ、オレ。プライベートを引きずって仕事に支障を来すようじゃだめじゃん。しゃんとしなきゃ)
 今は仕事に集中しよう。ハボックは両手でパンッと頬を叩くと司令室に向かって歩いていった。


「あ、中佐」
 バンッと執務室の扉を開ければ副官の大尉が振り向く。丁度電話を切ったところらしい大尉の手から受話器を取り上げようと手を伸ばしたヒューズは、その手を大尉に掴まれて眉を寄せた。
「何だよ、悪いが俺にその気はねぇぞ」
「なに気色の悪いこと言ってるんですか。そんなことより丁度よかった。将軍からお呼びがかかってます」
「は?俺は今忙しいんだよ、将軍なんかに構ってられるか」
 目を吊り上げてヒューズは言うと、大尉の手を振り払う。だが、受話器を取り上げる前に再び手首を掴まれ、ヒューズはキッと大尉を睨んだ。
「あのなぁ、俺は今忙しいって言ってんだろ!」
「ほー、なにに忙しいっていうんですか?まさかイーストシティに電話するからとか言うんじゃないでしょうね」
「えっ?」
 図星を指されてギクリとするヒューズに大尉はフンと鼻を鳴らす。
「そういうのは忙しいとは言いません。さあ、行きますよっ、中佐!」
「あっ、いや、ちょっと待ってくれ!五分!いや、三分でいいッ、俺に時間を────」
「四の五の言ってる暇はありません。あーよかった、呼びに行く手間が省けて助かりましたよ」
「ちょ……ッ、頼むっ、俺に時間をッ、時間をくれーッ!」
 必死に電話に手を伸ばすもののズルズルと引きずられて、ヒューズの叫び声が空しく響き渡った。


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