第十五話


『うわあ、でっかい水たまりッ!』
 車の窓から顔を突き出してハボックが叫ぶ。あんまり乗り出すので何度もヒューズに引き戻されながらもハボックはブンブンと尻尾を振って叫んだ。
『ねぇ、大佐!あれが海ッ?物凄いでっかい水たまりっスね!』
『せめて池と言え。いくら何でも水たまりじゃあ海に失礼だろう』
 公園で池くらい見たことがあるはずなのに、どうして例えにだすのが水たまりなんだ。後部座席のシートに私は呆れたため息を零したが、ハボックは全く気にした風もなく空色の瞳を輝かせて海を見ていた。
『ねぇ、ヒューズさん!まだ?まだ着かねぇんスか?!』
「ハボック、お前、少し落ち着け。冗談じゃなく窓から落ちるぞ」
 興奮しっぱなしのハボックを引き戻しながらヒューズが言う。それでもハボックは楽しそうに鼻先を風に当てながら海を眺めていた。
 久しぶりに休暇をとったヒューズに連れられて私たちは海の近くに遊びに来ていた。ヒューズに海に連れて行ってやると最初に言われた時、ハボックは『それって旨いんスか?』と、惚けた返事を返していたが、ヒューズに説明されてハボックなりにぼんやりと海というものを想像していたらしい。だが実際海を目の当たりにすればその広大さは海を知っていた私ですら感動を覚えるもので、初めて見るハボックにとっては度肝を抜くスケールだったに違いない筈だった。
『ねぇぇぇ、ヒューズさぁんッ!!』
「ああもう、仕方ねぇなぁ」
 このままでは本当に窓から落ちかねないと、ヒューズはメインの通りを外れて海へと続く脇道へと入っていく。砂浜近くの土手道に車を停めれば、ハボックが車の窓から半身乗り出した。
「だーかーらー、そこは出口じゃないっていつも言ってんだろうがっ」
『アイタタッ!痛いっス!』
 窓枠に腹を抉られるように引き戻されて、ハボックが情けない声を上げる。それでもヒューズがドアを開ければヒューズを乗り越えるようにしてハボックは外へと飛び出した。
「ハボック!」
 ヒューズが後部座席のドアを開けながら大声を上げると、ハボックは尻を落としてお座りする。私はヒューズが開けたドアから外に出ると思い切り伸びをした。
「ほんとお前ら足して2で割りてぇよ」
 落ち着かなげに尻を揺するハボックと大欠伸をする私を見比べて、ヒューズがため息混じりに言う。それでもハボックにジリジリとして見つめられればクスリと笑って言った。
「いいぞ、行ってこい」
『わあいッ!行ってきますッ!』
 ヒューズの言葉に弾かれたようにハボックが土手を駆け下り海へと走っていく。
「遠くに行くんじゃないぞ!」
 金色の背中に向かってヒューズが叫んだが、果たして聞こえているのか定かではなかった。
「おい、ロイ。頼むわ、ハボックが流されないように見ていてくれ」
『一度流された方が学ぶんじゃないのか?』
 頭で覚えるより体で覚えるタイプだろうと言ってみたが、やれやれと腰を下ろしたヒューズが「頼んだぞ」と言ってゴロリと転がり目を閉じるのを見れば仕方なくハボックの後を追う。砂浜に残る足跡を辿って波打ち際まで行くと、ハボックは波が来ないギリギリの所に立って足下を見ていた。
『海が行ったり来たりしてるっス』
『波と言うんだ』
『波』
 ハボックは私が言った言葉を繰り返して波を見つめる。打ち寄せた波をチョンと足先でつついたハボックは、意を決したように波を追って砂浜を歩いた。
『うおっ』
 波がちゃぷんと打ち寄せて脚を濡らされたハボックが声を上げる。次の瞬間ハボックは素っ頓狂な声を上げた。
『うひゃああッ』
『なんなんだ』
 煩いぞと睨む私をハボックが振り返る。空色の瞳をまん丸に見開いてハボックは言った。
『砂がぁッ!足下がなくなるっス!』
『ああ』
 何を騒いでいるのかと思えば、どうやら足下の砂が波に攫われる感触に驚いたらしい。それでも少ししてそれに慣れると、ハボックは足で水を掻き回したり鼻先を近づけて匂いを嗅いだりしていた。
『不思議な匂いがする』
『磯の香りだろう?』
『磯ぉ?』
 答えればハボックは首を傾げる。じっと海を見つめていたと思うと、何を考えたかいきなりペロリと海水を舐めた。
『あっ、馬鹿ッ』
『うえェッ!』
 止める間もあらばこそ海水を飲み込んだハボックはゲホゲホと咳き込む。
『なにこれッ?しょっぱッ!』
『当たり前だろう。海水は塩分を含んでるんだから』
『先に言って下さいよぅ』
『言う暇なんてなかったろう?』
 舐める前に聞けと思うが、身を持って体験する方が覚えるだろう。さっきヒューズに言った事を言えば、涙ぐんだ空色の瞳が恨めしげに私を見た。
 それでも暫くゲェゲェ言って落ち着くと、ハボックは遥か水平線を見つめる。見つめる瞳と同じ色の空が海と交わる所を見やって言った。
『あそこまで行ったら何が見えるのかなぁ』
『やめとけ。辿り着く前に死ぬぞ』
 下手なことを言えば本気でやりかねないのではっきりと言っておく。そうすればハボックは至極残念そうに鼻を鳴らした。
『んー、じゃあちょっとだけ!』
 だが、諦めたのかと思いきや、ハボックはいきなり海にダイブする。ギョッとする私の前で、ハボックは波に揺られて歓声を上げた。
『わあ、浮かぶ〜!』
『真水より浮力があるからな』
『へえ、そうなんスか!』
 ハボックは私の説明に感心したように頷きながら波に体を預ける。その時一際大きな波が来てハボックの体がふわりと大きく浮いた。
『おわッ?わわわッ!』
 ザザッと打ち上げられた拍子にハボックは波の中に潜ってしまう。慌てて駆け寄った私に、海水を飲み込んでパニックになったハボックが飛びついてきた。
『げっ?!』
 気づいた時にはハボック諸共海の中に倒れ込んで、海水を飲んでしまう。二人してゲホゲホ咳込みながら、私はハボックの頭を殴った。
『なにをするッ!』
『だって』
『だってじゃないッ』
 私は怒鳴ってハボックの頭を踏みつける。海水に顔を突っ込んでゲエゲエと塩水を吐き出したハボックが涙目で私を見た。
『ヒドイっス!!』
『こっちのセリフだッ!』
 私はそう言うとハボックを置いて歩き出す。慌てて追ってきたハボックがブルブルと体を震わせて海水を振りまいた。
『やめんかッ!』
『だってー』
 海水を垂らしながら私たちはヒューズの所に戻る。びしょびしょに濡れたハボックにすり寄られて、ヒューズが驚いて跳ね起きた。
「……お前ら、なんて格好してんの」
『ハボックが阿呆だからだ』
『えー、オレのせい?』
『明らかにお前のせいだろうッ!』
 バウバウと言い争う私たちにヒューズがため息をつく。ボリボリと頭を掻いたと思うととんでもないことを言った。
「お前ら車の後から走ってこい」
『はあッ?!』
『えーッ?なんでッ?』
「そんな砂と海水塗れのヤツ乗せたくねぇ」
 シートが汚れると言うヒューズにハボックが纏わりつく。
『ヒューズさんッ、車乗せてッ』
『貴様、愛犬より車が大事かッ』
 バウバウバウとステレオで吠えられて、ヒューズは両手で耳を塞いだ。
「まったくもう……」
 ヒューズはため息をついて荷物の中からタオルを取り出す。結局、ザッと海水を拭き取った後、私とハボックは海水でベタつく体を後部座席のシートの下で寄せ合って車に揺られる事になったのだった。


2014/03/28


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