彼は幸せだった。生まれた場所の片隅で、ずっと欠けたまま震えていた彼の傍らに漸くその半分が帰ってきたのだ。その片割れを見た瞬間、彼の体は眩い金色に輝き、喜びを表すようにキラキラと空色の欠片が零れた。帰ってきた相手の方は黒曜石の輝きに月の雫の煌めきを散らして、彼をそっと抱き締めた。そうして長い別離が嘘のように溶け合って完璧に一つになった。
 彼らは柔らかい光に満ちたその世界で、互いを抱き締めあいゆるゆると微睡んだ。それは暖かく、とても幸せな時間であった。
 だが。
 時は巡り万物の創造主は幸せに微睡む魂に手を伸ばす。そうしてその魂を二つに裂くとその一方を地上に向けて放り投げた。あっという間に流れて消えてしまった半分に、残された半分が悲鳴を上げる。例えようのない喪失感と絶望に震える半分の魂は、やがて自らその身を地上に向かって投げ出した。光の矢になって空を横切った彼はやがて一人の人間として地上に立ち、そして。
 いつかまた天上のあの世界でひとつに溶け合うその時まで、幾万と溢れる人の中からたった一人の相手を探して彷徨い続けるのだった。



菫青石の恋 〜 second season 〜  第一章


「よし、おしまい」
 ハボックはそう言いながら食器戸棚の扉を閉める。壁にかかった時計を見て、あっと目を見開いた。
「そろそろ来るころだ」
 そう呟いてハボックは器用に車椅子を操る。窓際の指定席になっているところへ車椅子を寄せると窓から外を見た。


 今年19になるハボックは脚が不自由な為車椅子で生活している。本人は覚えていないが子供の頃の病気が原因らしい。両親は幼い頃に亡くなり、その後自分を引き取って育ててくれた祖父母も五年前に祖父が、そして三年前には祖母が亡くなり、今ではこのアパートに一人で暮らしていた。若いころ貿易商をしていた祖父は裕福な家庭の出だったので、死んだ後もハボックが一人で生きていくのに十分な財産を残してくれていた。ハボックが住んでいるこのアパートも祖父が残してくれたもので、ハボックはその一室に住みながら残りの部屋を貸し出してその賃料で生計をたてていた。もっとも車椅子のハボックにアパートの管理は難しかったから、もっぱら管理は一階の管理人室に住み込みの夫婦を雇って任せている。車椅子での生活を考えれば一階の部屋に住むのが好ましいのだろうが、ハボックは敢えて三階建てのアパートの二階に住んでいた。そこであればなかなか一人では外出もままならないハボックでも窓から外を眺めることで退屈を紛らわすことが出来るからだ。
 ハボックは時間が空いている時は必ずその窓辺で過ごしていた。週に二、三度ヘルパーが来てくれていたから買い物や掃除などはそのヘルパーに頼んでいるものの、普段の食事や洗濯は出来る限り自分でこなすようにしていた。ヘルパーがいなくて自分で出来ない時は、管理人の女房が手伝ってくれることもあった。食事をしたり簡単な家事をして、窓から見える景色でそっと外の世界に触れる。それがハボックの生活の全てであった。


 ハボックがその軍人に気づいたのはほんの偶然だった。ハボックの部屋はイーストシティのメインストリートのすぐ近くの通りに面していたから、いつも大勢の人々が行き交っていた。ある時は窓から空を眺めて季節の移り変わりを感じ、またある時はその行き交う人々を見て、その人の仕事や生活を想像するのがハボックの常だった。
 その日もハボックはいつものように窓辺に車椅子を寄せて外を見ていた。そろそろ夏も終わりを告げ、秋の気配を滲ませた空に浮かぶ雲を眺めて、暫くの間その形に色々なことを思い描いたハボックは、今度は通りへと目を向ける。通りを挟んだ向こう側にはイーストシティでも指折りの洋菓子店が最近店を構えて、まるで甘い香りに誘われるように可愛らしい女性たちがひっきりなしに店を訪れていた。
「ふふ、今日は家族の誕生日なのかな」
 リボンのかかった大きな箱を手に店を出てくる女性を見て、ハボックはケーキを囲む家族の姿を想像する。凝った細工のキャンディを嬉しそうに掲げる子供の姿を見れば自然とハボックの空色の瞳も嬉しそうに細められた。店に入っては幾つもの甘い幸せを手に、それぞれの生活に戻っていく人々の姿を見ていたハボックは、その場に似つかわしくない青い軍服を見つけて目を瞠った。
「軍人?」
 それは黒い髪をした若い軍人だった。白晢の顔は黒い切れ長の瞳が印象的で、遠くからでも整った顔立ちであることが判る。スッと背筋の伸びた体は均整がとれていて、きびきびとした無駄のない歩き方が彼の軍人としての能力を垣間見せていた。
「なにしてるんだろう…」
 イーストシティの通りを軍人が歩いていることはさして珍しいことではない。アメストリスは軍事国家だったし、軍人のあの青い服はイーストシティの市民にとって馴染みのあるものだった。だが、見るからに高位にありそうな男が一人で歩いているとなれば話は別だ。ハボックがじっと見つめる中、足早に歩いてきたその軍人は辺りを見回すと洋菓子店の中にそそくさと入っていった。
「ケーキを買いに来た…?軍人がこんな時間に…?」
 ハボックはそう呟いて時計を見る。時計の針は10時を少し回ったところで、軍人がケーキを買いに来るような時間でないのは確かだった。
 ハボックが店の入口をじっと見ていると暫くしてその軍人が出てくる。手に店のロゴの入った紙袋を持った軍人は実に嬉しそうな笑みを浮かべると、紙袋の中に手を突っ込み中から茶色の塊を取り出した。一口大のそれをポンと口に放り込みモグモグと噛み締める。そうすればホワンと見るからに美味しそうに顔を弛める軍人にハボックはプッと吹き出した。
「あ、あの人…っ」
 店に入る前の澄ました、いわゆる「イイ男」とも言うべき彼の思いもしない顔を見て、ハボックはクスクスと笑う。彼を追うようにして出てきた店の制服に身を包んだ女性が、何か言いながら小さな包みを差し出すのを受け取る時には、さっきの弛んだ顔が嘘のように涼やかな笑みを浮かべているのを見れば、ハボックはますます可笑しくてたまらなかった。
「ケーキ好きなんだ、あの人」
 そう呟いてじっとその軍人を見つめる。その時、すぐ側に軍の車が止まって中から恰幅のよい軍人が出てきた。その姿を見た瞬間、黒髪の軍人は「しまった」というように顔を引きつらせる。だが、次の瞬間にはにこやかな笑みを浮かべて後からきた軍人の言葉を待った。声は聞こえないもののその仕草と互いの顔つきから、どうやら仕事を抜け出して洋菓子店に来た上司を部下が迎えに来たらしい。恰幅のよい軍人は黒髪の軍人を車に押し込むともの凄い勢いで車を走らせ去ってしまった。
「ケーキ好きの軍人かぁ」
 その外見や立ち居振る舞いからはとてもそうとは思えないのが笑いを誘う。むしろ後から来た部下の方が買いに来たのであれば、せいぜいこんな時間に、ぐらいしか思わなかっただろう。
「また来るかな」
 ハボックは楽しそうに笑みを浮かべながらそう呟いた。


 その日以来ハボックはその軍人が洋菓子店を訪れるのを心待ちにするようになった。流石に毎日とは言わないものの、それでも三日と開けずに店を訪れる軍人は、時には一人で、時には部下の運転する車で現れた。時間は決まって10時前後だったからハボックは毎日その時間には窓辺に座って洋菓子店を見下ろすようになっていた。
 何日も見つめるうち色んな事が判ってくる。その身に纏う軍服の肩章から彼がその若さですでに大佐位にあること、新作ケーキの発売日には絶対にやってくること(新作ケーキが発売される時はその数日前からポスターが貼られるから判るのだ)、彼の側近の部下には男が三人ほどと女性が一人いるようだが、その女性の部下(これがまたとびきりの美人だ)に頭が上がらないようであることなどなど。そうやって少しずつ知っていることが増えるとハボックは色んな想像をするようになっていった。
「もしもオレがあの人の部下だったら」
 とハボックは青い軍服に身を包んだ自分を想像する。彼の命令一下、恐れを知らぬ猛者どもを率いる隊長として飛び出していくのだ。無事作戦を成功させたなら、きっと彼はあの涼やかな面に満面の笑みを浮かべて労ってくれるに違いない。その時の誇らしい気持ちを思い浮かべてハボックは目を細める。またある時は、
「きっとあの人は地位のある人だから敵も多いんだろうな。そしたらオレがあの人を体を張って守るんだ」
 と、護衛官としての自分をハボックは想像してみた。彼が胸に抱く大望を果たすその時まで彼の背中を守り、そうして彼が輝く頂を手に入れる瞬間を一緒にすることが出来たら、それはどれほど大きな感動と喜びを自分にもたらすのだろう。
 軍人が店にやってきて立ち去るまでの短い時間、ハボックは幸せな夢を見る。だが、彼が行ってしまえばその夢は瞬く間に消え去って、ハボックは自分がアパートの片隅で想像に耽っているだけに過ぎないことに気づかされるのだ。
「バカみてぇ、この足であの人の部下になんてなれるわけないじゃん。大体あの人はオレのことなんてこれっぽっちも知らないのに……」
 一方的にただ見つめているだけ。この先も彼が自分に気づくことなどありはしないのだ。
 毎日毎日ハボックは幸せな夢を見ては、厳しい現実に打ちのめされる。それでも窓から黒髪の軍人を見つめることをやめることは出来なかった。


→ 第二章