サイゴまで 1


『んじゃ、次回までに心の準備しておいてくださいね』
 ハボックはそう言ってにっこりと笑うとロイの唇にキスを落とした。


「うわあッ!」
 隠れ家にしている資料室の一番奥まった、今や誰も見ないのではと思われる埃の積もったファイルがしまい込まれた一角で、昼寝を決め込んでいたロイは叫び声をあげて飛び起きる。夢の中に出てきたハボックが先日と同じ台詞をにっこり笑って言ったのを思い出して、ロイの顔にカアアッと血が上った。
 先日の初デートの折、若干揉めたもののハボックと初めてキスをした。逞しい腕に抱き込まれて交わしたキスは、その時は無我夢中でよく判らなかったが今になって振り返れば酷く甘いものだった。何度も繰り返して『いっぱいキスしたい』というハボックの熱い囁きに流されるまま身を任せれば。
「あっ、あんなところにキスするなんて……ッ」
 とても人には言えない場所にキスされて、パニックを起こしたロイはハボックの頭をぶん殴ってしまった。恨めしげに見つめながらもっといろんなところにキスしたいのだとぬかしたハボックに、いきなりは無理だと訴えれば冒頭のハボックの台詞となった訳なのだが。
「心の準備なんてどうやってしろっていうんだ……」
 ロイは呟いて真っ赤になった頬を両手で押さえる。この間ハボックがキスしてきたのは所謂排泄器官と呼ばれるところだ。そんなところにキスされることにどうやって心の準備をするというのだろう。
「それに他にもキスしたいとか言ってたし」
 先日のデートでキスされたのはどこだったかとロイは真っ赤になりながら思い返す。それ以外の場所と言ったらどこが残っているのだろうと考えて、ロイは羞恥のあまり死にそうになった。
「無理っ……絶対無理ッ!」
 ハボックの事は好きだ。キスするのも嫌じゃないし気持ちいいと思う。キスするのが唇ならば。だが、ハボックがキスしたと言っているのはそんな可愛らしい場所ではなく、もしそんな場所へのキスを赦したならその先に続く事を考えて、ロイは赤らめた顔をサーッと青くした。
「心の準備なんて出来ない」
 自分たちはいい年をした大人なのだから恋愛事についてくる行為がどう言ったものかは判っている。判ってはいるが、だがしかし。
「次回っていつ?」
 そう言う行為はもう少しお互いの気持ちが熟してからするものであって、『次回』ではあまりに急過ぎる。ロイが混乱した頭で『次回』が一体いつなのか、考えを巡らしていれば不意に頭上から声が降ってきた。
「今日はここにいたんスね」
「ッッ!!」
 やれやれとため息混じりに言う声にロイは文字通り飛び上がる。その過剰なまでの反応にハボックが首を傾げて言った。
「どうかしたんスか?大佐」
「なっ、なんでもないッ!」
 不思議そうに言うハボックにロイは裏返った声で答える。書架に手をついて覗き込んでくる空色にひきつった笑みを返すロイにハボックが言った。
「あ、そうだ。大佐───」
「中尉が怒ってるんだなっ、判った、すぐ戻るッ!」
 言いかけたハボックの言葉を遮ってロイは叫ぶ。そうしてハボックの腕の下をくぐるようにして飛び出すと脱兎の勢いで資料室を飛び出した。
(『次回』の話をされたら終わりだ…ッ)
 心の準備が出来るとは思えない現状で『次回』の話は禁物だ。ロイは心の中でそう考えると、プライベートな話など出来ないであろう司令室へ一目散に駆けていった。


「大佐、この書類にサインください」
 開けっ放しになっている扉を軽く叩いてハボックが執務室に入ってくる。ロイはピクリと肩を震わせたものの動じた様子を見せずに書類から顔を上げた。
「ああ、どれだ?」
「これっス」
 差し出された書類を受け取って目を通し、サインをしてハボックに返す。そのまま再び元見ていた書類に視線を戻せばハボックが言った。
「コーヒーでも淹れましょうか?」
「いや、今は喉乾いてないからいい」
 いつもならここでコーヒーと呼ぶには砂糖もミルクも多過ぎだろうと言うようなシロモノを淹れてもらうところだ。だが、それを頼めば自分の分も淹れてきたハボックがここで雑談を咲かせる事は目に見えていて、それはなんとしても避けなければならなかった。
「そうっスか」
 いつもと違う反応にハボックが意外そうに目を見開いて言う。じっと視線を俯けたまま書類に没頭している風なロイに、ハボックが言った。
「大佐、扉閉めましょうか?」
 いつもなら少しでもサボれるよう、人目を遮る為なら錬金術で施錠しかねないロイが扉を開けたままでいるのを不思議に思いながらハボックが言えば、慌てたようにロイが答える。
「やっ、いいんだ、開けておいてくれッ!締め切ると空気がこもって体によくないからなっ」
「はあ、そうっスか」
 ハハハとわざとらしく笑うロイをハボックは胡散臭げに見たが、肩を竦めると『どうも』と執務室を出ていった。
「はあ……よかった……」
 なんとか『次回』の話をしないで済んだ事にロイは肺中の空気を吐き出してホッとする。プライベートな話をする事のないよう扉を開け放っておいたのは正解だったと思うと同時に、いっそ錬金術で扉を固定してしまおうかと本気で考えるロイだった。


「ブレダ少尉、ちょっと!」
 ロイはハボックがいない隙を見てブレダを手招きする。こそこそしたロイの様子に首を傾げながらもブレダは開けっ放しの執務室に入ってきた。
「なんでしょう、大佐」
「今日の送迎の車だが、少尉に頼めるか?いや、今日だけでなく、当分の間少尉に頼みたいんだが」
 何事かと思えばそんなことを言うロイにブレダはあからさまにため息をつく。うんざりとした顔でロイを見つめて言った。
「まぁたハボと痴話喧嘩ですか?いい加減にしてください」
 ロイとハボックが性別と階級の垣根を乗り越えて付き合い始めたことはハボックから聞いている。付き合う以前からどう見てもバカップルにしか見えない二人に振り回されてきた身としては、出来るだけ関わり合いになりたくないというのが本音だった。
「な…っ、いつ私とハボックが痴話喧嘩をしたというんだッ!」
 真っ赤になって叫ぶロイに自覚がないのも考え物だとブレダは思う。
「とにかく暫くの間送迎は頼んだからなッ!」
「……アイ・サー」
 叫ぶように言うロイにブレダはうんざりとして答えたのだった。


「え?送迎、お前がやんの?」
「当分頼むって言われたぜ?頼むから俺を巻き込むなよ」
 思い切り迷惑そうに言われてハボックは眉を顰める。『送ってくる』と出ていくブレダに手を挙げて答えると、ハボックは椅子に背を預けて天井を見上げた。
「やっぱアレだな」
 漸くこぎ着けた初デートで初めてロイとキスをした。そのあまりの甘さにもっともっととキスを降らしていったハボックだったが、ついつい欲張ってしまえば思い切り後頭部をぶん殴られ。
『いっ、いきなりは無理…ッ、心の準備が…っ!』
 そう言うロイにそれなら次回までに準備をしておいてくれと言ったのは自分だ。だが。
「まんま受け取らなくてもいいのに」
 ロイの様子がおかしかったのはそのせいかと気づいてハボックは苦笑する。おそらく『次回』の話を持ち出されないよう、必死に予防線を張っていたのだろう。それはハボックを嫌ってそうしているのではなく、ただハボックが言ったことを真正面から受け止めて本当にどうしていいか判らずパニックになっているのだと判ってハボックは苦笑した。
「まぁ、そう言うところが大佐らしくて可愛いけど」
 この間の初デートではすっかり緊張してしまったが、結局のところロイも同じだったのかもしれない。あの時ああは言ったものの正直なところを言えば『次回』が次のデートである必要はないと思う。自然とそう言う雰囲気になったときになればいいのだ。
「でも、そこまで期待してくれてるなら『次回』にしちゃおうかな」
 ハボックはクスクスと笑って煙草を灰皿に押しつけると、立ち上がって司令室を出ていった。


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