白詰草   前編


「事故?!それで大佐は?!」
 セントラルへ出張で出てきたハボックはヒューズにそう告げられて顔色を変えた。
「落ち着け、ワンコ。落ち着くんだ」
「これが落ち着いていられるわけないでしょうっ?!」
「少尉!」
 ヒューズに階級で呼ばれてハボックはびくりと体を震わせる。ヒューズはそんなハボックの腕をぽんぽんと叩いた。
「大丈夫だ。命に別状はない。今、軍の病院に運び込まれて手当てを受けてる。わかるな、ロイは大丈夫だ」
 そう言われてハボックの体から力が抜けた。大きくひとつ息を吐くとヒューズに尋ねる。
「事故っていいましたよね、どういうことです?」
「ん、運転していた警備兵のミスだ。ブレーキとアクセルを踏み間違えやがったんだと」
 それを聞いてハボックの唇が歪む。
「くそっ、やっぱオレが運転すればよかった…っ」
 ロイとハボック、そしてホークアイは昨日から会議と視察の為、セントラルに来ていた。今日、ハボックは視察に出ていたロイたちとは別行動で、中央図書館でロイから頼まれた資料を探していたのだ。
「中尉は?大佐と一緒に乗ってたんスよね?」
「ああ、彼女は軽症だ。心配ない」
 そうスか、と呟くハボックの肩を叩いてヒューズは言った。
「今から病院に行くが…」
「勿論ご一緒します」
「だな。よし、行くぞ」
 そう言って部屋を出て行くヒューズに続いて、ハボックは足早に病院へと向かった。

「中尉!」
 病室の前に立つホークアイを見つけてハボックが言った。二人の姿を認めたホークアイが敬礼をする。
「中尉、こんなところに立っていて大丈夫なのか?」
 ヒューズに尋ねられてホークアイは微かに笑った。
「肩の打撲だけですから。大したことありません」
「そうか、なら良かった。で、ロイは?」
「先ほど処置が終わって病室のほうへ。額を切って2針ほど縫ったのですが」
「会えるのか?」
「大丈夫です」
 その言葉にハボックは間髪を入れずに病室の扉を開けた。走るようにベッドへ近寄ると横たわるロイに顔を寄せる。
「…たいさっ」
 ハボックの声にロイの睫が震えてゆっくりと目蓋が開く。その黒い瞳を見て、ハボックは安堵の息を零した。
「よかった…」
 そう呟いてロイの髪に触れようと手を伸ばした瞬間、ロイがびくりと体を震わせた。
「…だれだ?」
「え…?」
「だれだ、お前?」
 全く知らない人を見るようなロイの視線にハボックは伸ばした手を引っ込める。ハボックの肩越しにヒューズとホークアイの姿を認めたロイがあからさまにホッと息をついて言った。
「ヒューズ、少尉!」
 その呼びかけに3人はぎょっと身を硬くした。ヒューズがハボックを押しのけてロイに近づく。
「ロイ、お前、今なんて…?」
「ヒューズ、お前、イーストシティに来てたのか。ここはどこだ?なんで私はこんな所に…?」
「大佐、ここはセントラルです」
「少尉?セントラルだと?大体、大佐って誰のことだ?」
 まるで訳がわからないという顔をするロイにヒューズとホークアイは顔を見合わせる。それからヒューズは呆然と立ち竦むハボックを振り返ると言った。
「少尉、ドクターを呼んで来い」
 そう言われても動こうとしないハボックにヒューズが苛々と言う。
「少尉!ドクターを呼んで来いと言ってるんだ!」
 びくんと体を震わせてハボックがヒューズを見る。早く、と顎をしゃくるヒューズにハボックは慌てて病室を飛び出した。

 ロイの診察を終えた医師に診察室へ呼ばれてハボック達は不安げな顔を並べた。
「どうも、頭を打ったショックで記憶が混濁しているようです」
 そう言う医師にヒューズが尋ねる。
「混濁って…。ホークアイ中尉のことを少尉と呼んでたが?」
「恐らく全ての記憶を無くした訳ではなくて、ここ数年のことを覚えていないということでしょう」
「ここ、数年の…」
 ヒューズは呟いて背後に立つハボックをちらりと見る。
「で、治療はどのように?」
「治療といいましても、結局、記憶の引き出しが何らかのショックで開かなくなっているということなので…」
 普段の生活の中からゆっくりと記憶を取り戻していくしかない、と医師は言った。その言葉に3人は顔を見合わせる。
「怪我自体は大したものではありません。抜糸もすぐできるでしょう。ただ、いつ記憶が正常になるかについては なんとも…」
 額の汗を拭いながらそう告げる医師に3人は途方に暮れてしまった。

「参ったな…」
 司令部に戻ったヒューズは休憩所のソファーにどさりと座るとそう呟いた。ホークアイは病院に残ってロイの側についている。ヒューズはぼんやりと立っているハボックを見上げると言った。
「おい、立ってないで座ったらどうだ」
 その言葉にハボックがうつろな目をヒューズに向ける。ヒューズはその表情に立ち上がるとハボックの両肩に手を置いた。
「しっかりしろ、ワンコ。お前がそんなんでどうする」
 そう言うヒューズにハボックが泣き出しそうな目をした。
「たいさ、オレのことわからなかった…」
 搾り出すようにハボックが呟く。
「お前、誰だ、だってさ」
「ジャン」
 ヒューズはあやす様に優しくそう呼ぶとハボックの髪をくしゃりとかき回す。
「だいじょうぶだ、すぐ元に戻るさ。だからそんな顔するな」
 そう言ってヒューズはハボックを軽く抱きしめるとポンポンとハボックの頭を叩く。ハボックはヒューズの肩口に顔を埋めると小さくため息をついた。
「とにかく、抜糸が済むまでは入院するとして、その後どうするかだな。記憶が混濁してるんじゃ仕事どころじゃないだろうし」
 ヒューズはハボックの頭を撫でながら言葉を続ける。
「考えることは山ほどあるんだ。そんな顔してる暇はないぞ」
 そう言われてハボックは小さな子供のようにヒューズの背に縋りついた。

 抜糸が済んで、だがまだ記憶の戻らないロイと共に、ハボックは暫くの間ホテルに滞在する事になった。こんなことになって会議どころではなくなったのだが、もう2、3日、体調を整えてからイーストシティに帰ったほうがよいだろうと言う事になったのだ。ホークアイは一足先にイーストシティに帰り、ロイが不在の間の事務処理を行う事になった。もしこのままロイの病状が改善しないのであれば、今後どうするかも考えなくてはならない。
「少尉、大佐のこと、よろしく頼むわね」
 ホークアイはハボックの腕に手を置くと言った。
「大丈夫よ、きっと大丈夫」
 そう言うホークアイにハボックは微かに笑った。
「中尉こそ、大変でしょうけど…」
「こっちのことは心配しないで」
 そう言って微笑むホークアイにハボックは小さく頷いた。

「大佐、コーヒーでもいかがっスか?」
 ハボックは窓辺の椅子に腰掛けるロイにコーヒーを差し出しながら言った。
「ああ、ありがとう」
 そう言ってコーヒーを受け取るロイにハボックは違和感を覚える。ロイはコーヒーを一口飲むとちらりとハボックを見て言った。
「ハボック…少尉だったな」
「はい」
「私の直属の部下、だって?」
「そうっス」
 そう答えるハボックに、しかし、ロイはピンと来ないようだった。
「記憶というのは不思議なものだな。しかもここ数年のことだけが抜け落ちるなんて」
「そうっスね…」
 二人きりで部屋にいる事に、ロイは落ち着かないようだった。そんなロイの様子にハボックは唇を噛み締める。
「オレ、隣の部屋にいますから、何かあったら呼んでください」
 そう言ってハボックはロイを残して部屋を出て行った。

 ロイはハボックが出て行った扉を見つめるとホッと息を吐いた。自分を見つめてくるハボックの視線の意味が判らなくてどうにも落ち着かない。ハボックのことは全く思い出せないのに、あの空色の瞳だけはなぜか心の何かに引っかかる。ハボックを問い詰めたら何か判るのだろうか。ロイはそう考えて頭を振った。知るのが怖い気がする。思い出したいのか、思い出したくないのか、あの空色の瞳を見るたびさわさわと揺れる心に、ロイは自分がどうしたいのか判らなくて途方に暮れていた。

『もうすぐ仕事が終わるから、そしたら3人でメシでも食おう』
「わかりました」
『ホテルのレストランでいいだろ?まだ、ロイを連れまわさん方がいいだろうし。あと30分くらいだな。ロビーに着いたら連絡する』
 わかったと告げて、ハボックは受話器を置いた。隣の部屋にいるロイにヒューズの言葉を伝えようと扉を軽くノックする。だが、返事がないのに首を傾げて、ハボックはそっと扉を開いた。
「たいさ?」
 そう言って椅子に座るロイを見やればうとうとと居眠りをしていた。まだ本調子ではないのだろう、疲れたその顔にハボックは眉を顰めた。静かに近づくとそっとロイの髪に触れる。そのサラリとした感触にハボックは唇を震わせた。
「たいさ…たいさ…」
 何度も呟いて髪を撫でる。そうすればロイの記憶が戻るとでも言うように、ハボックはロイの髪をなで続けた


→ 後編