セレスタの涙、オニキスの誓い  第百四十五章


「ん……」
 微かに聞こえる鳥の鳴き声に眠りの淵から引き戻されて、ハボックはゆっくりと目を開く。躯に回された腕の重みに傍らを見れば、寄り添って眠るロイの端正な顔を見つけてハボックはうっすらと笑みを浮かべた。
 求められるまま何度も何度もロイの熱を受け入れて、気を失うように眠りに落ちた。いつのまにか清められた躯は奥底に違和感と重たいような痛みを感じたけれどそれは決して不快なものではなく、ハボックはさらりとしたシーツに頬をすり付けるようにしてロイに身を寄せた。微かに香るロイのコロンの香りを嗅ぎながらロイの顔を見つめる。暫くそうしてロイを見つめていたハボックは、大好きな黒曜石が見えないことを残念に思いながらもそっと身を起こした。
「たいさ……」
 眠るロイの額にかかる黒髪をそっと払ってハボックは白い額にキスを落とす。ロイを越してしまわないよう腰に回された腕を優しくシーツに落とすと、ハボックはベッドから脚をおろした。
「ん……っ」
 床に脚をおろした瞬間、躯の奥底にロイを感じてハボックは震える吐息を吐き出す。目を閉じ緩く頭を振って甘い名残を振り払うと、ハボックはゆっくりと立ち上がった。ベッドサイドの椅子にかけられた服を手に取り身につけていく。軍服の一番上のボタンを留めた時にはもう夕べの名残を伺わせるものは一切消え失せて、ハボックは綺麗に晴れ渡った空を思わせる空色の瞳でベッドの上のロイを見遣った。
「大佐」
 ロイを起こさないよう囁くようにロイを呼ぶ。指先で黒髪を優しく梳いてハボックはロイを見つめた。
「それじゃあ行ってきます。ちゃんと決着つけて帰ってくるっスから、中尉に迷惑かけないでイイ子に待っててくださいね」
 小さな声でそう告げてハボックはロイの顔を見つめる。行く前に大好きな黒曜石をもう一度見たいと思ったけれどそれは諦めて、ハボックは瞼に隠された瞳にそっと口づけた。
「好き……行ってきます、大佐」
 小さな、だがきっぱりとした声で告げてハボックは身を起こす。そうしてロイを残したままハボックは寝室を出ていった。


 パタンと扉が閉まる音にロイは閉じていた目を開ける。そのまま動かずに耳を澄ませていれば、足音が遠ざかり玄関の扉を開け閉めする音が聞こえた。家の裏手でエンジンがかかる音がする。ロイは耳慣れた軍用車のエンジン音が聞こえなくなるまでじっと動かずに天井を見つめていた。
 ガタガタと風が鎧戸を揺らす音にロイはピクリと体を震わせる。ベッドに肘をついて身を起こして傍らを見遣った。
「……」
 僅かに乱れた痕がハボックがいたことを知らせるシーツへロイは手を伸ばす。だがもうそこにあったはずの温もりは消え失せて、冷たくさらりとした感触があるだけだった。
「ハボック……」
 行くなと引き留めたくて、だが前に進むためには必要な事だとロイは伸ばしそうになる手を必死にブランケットの中で握り締めた。優しく瞼に触れてきたハボックをそのまま抱き締めて腕の中に閉じ込めたい衝動を必死に押さえ込んだ。少しでも動けば自分を抑える自信がなくて、ピクリとも動かずハボックが出ていく気配を全身で追ったロイは、深いため息をついてゆっくりと立ち上がった。服を身につけ階下に降りるとリビングに入り、暖炉に近づくと残る熾に薪を重ねて火を熾す。やがてパチパチと小さく爆ぜる音を聞けば、焔に照らされて乱れるハボックの姿が思い起こされてロイはギュッと目を閉じた。
『たいさ……』
『たいさ、好き……』
 ロイの不安をその腕で抱き締めて包み込んでくれたハボックをロイは想う。
『ちゃんと決着つけて帰ってくるっスから』
 瞼越し瞳に落とされたキス。今の自分に出来るのはハボックを信じ、彼が帰ってきた時にすぐにでも一歩を踏み出せる力を蓄えることだ。
「待っている、ハボック。お前が帰ってきたら、その時が私たちのスタートだ」
 そう言ってロイは閉じていた目を開ける。暖炉の火を消して、ロイは新しい一歩を踏み出すその為に家を出ていった。


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