| 二 |
| 「ない」 私はそう呟いて顔を上げる。ハアとため息をついて散らかった書斎を見回した。 いつも持ち歩いている手帳が見当たらない。ちょっとした事から大事な事まで、何でも書き留めている手帳だ。正直なくなりなどしたら、これまで積み上げてきたものの半分以上を失ってしまうと言えるほどの一大事だった。 「参ったな」 私は本の山があちこちに積み上げられ書きかけのメモやら服やらが散らかった書斎を見てため息をつく。書斎のどこかにあるはずだが、この中から探し物をするのは考えただけで気が遠くなりそうだった。 「うーっ」 腰に手を当て唸ったところで出てくる筈もない。仕方ないと探し始めようとした時、扉のところからクスクスと笑う声がした。 「なに唸ってるんスか?」 そう言う声に振り向けば、彼が扉に寄りかかるようにして立っている。 「手帳が見つからないんだ」 と言うと、彼が考えるように首を傾げた。 「手帳っていつも持ってる黒い革のやつ?」 「ああ。この部屋のどこかにある筈なんだが」 うんざりしたような響きをのせた私の言葉に彼が書斎を見回す。 「普段から片付けておかないからっスよ」 「ちゃんと何がどこにあるか判ってるからいいんだ」 「でも手帳の在処は判らないんでしょ?」 苦しい言い訳を一言の下に切り捨てられて私はウッと口ごもった。 「仕方ないっスね」 クスリと笑って言った彼が書斎の中に入ってきたと思うと私に向かって手を伸ばす。私の首にスルリと腕を絡めた彼が私の襟元に顔を埋めた。 「おいっ?!」 驚いて肩を掴んで引き剥がせば、にっこりと笑って彼が言った。 「アンタの匂いは覚えてるっスけど、ここはアンタの匂いだらけだから」 しっかり鼻に焼き付けておかないと、と言ったと思うと掴んだ肩がスルリと手から抜けて、人だった姿が金色の犬になる。彼はクンと鼻を鳴らして書斎の中を歩き回った。 「どっかにしまい込んだりはしてないっスよね?」 「ああ。どこかにポンと置いた筈だ」 歩きながら尋ねてくる彼に私は答える。彼は積み上がった本の山に軽々と飛び乗り、書斎の中を見回した。 「アンタの匂いがついた革の匂いは幾つかあるんスけど……」 彼は考えるように本の山の上で首を傾げる。傾げた首を伸ばして空気中の匂いをクンと嗅いだと思うと、ピョンと山から飛び降りた。そのままピョンピョンと山を飛び越え本棚のすぐ側の山の間に顔を突っ込む。見えなくなった顔が再び現れた時、彼の口には黒い革の手帳が咥えられていた。 「はい、これっしょ?」 本の山を飛び越えて私の側までくると、彼は咥えていた手帳を床に置く。体を屈め手帳を拾い上げて顔を上げれば、人の姿になった彼が笑みを浮かべて立っていた。 「そうか、棚から本を取るのに近くの本の上に置いたらそこから落ちたのか。よく見つけられたな」 ホッと息を吐いて礼を言えば彼が答える。 「アンタの匂いがする革でアンタが使ってるペンのインクの匂いが一番強いやつを探したんスよ。一応匂いを辿るのは得意なんで」 「助かったよ、本当にありがとう」 ニコッと笑って言う彼に心の底から礼を言えば、彼は私の瞳を覗き込むようにして言った。 「お礼に名前を返してくれるとかありません?」 悪戯っぽい表情を浮かべる彼に私は答える。 「それは等価交換じゃないな」 「えーっ、オレの名前ってアンタの手帳以下?」 ひでぇとボヤく彼に笑って返せば彼はやれやれとため息をついた。 「まあ、これに懲りたらもう少し片付けるんですね」 「なくしたらまた探してくれるだろう?」 「またタダ働きさせる気っスか?」 「好きだろう?」 ニヤリと笑って言えば彼が私の顔を見る。私を見つめる空色の瞳が瞼に隠れたと思うと彼は笑って言った。 「そうっスね」 隠された瞳にどんな感情を隠したのだろう。私は襟元に微かに残る彼の香りを吸い込んでそう考えた。 2012/10/11 |
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