最近私は妖を一匹飼っている。偶然一枚の札を手にした事で、一匹の妖を手に入れたのだ。


 彼と初めて会ったのはほんのひと月程前のこと。その日偶々雨宿りに立ち寄った古い屋敷の軒下に、私は隠すように押し込まれている擦り切れた小さな札を見つけた。それがかつて彼を捕らえていた男が彼の名前を記した札であることを、私はその札を手にして記された文字を口にし再び彼から名前を奪ってしまってから知ったのだった。
「そんなところに隠してあったなんて」
 私が口にした名に答えるように姿を現したのは、金色の毛をしたそれはそれは美しい一匹の犬だった。犬が喋るなど普通の人間から見れば信じられない事かもしれないが、幼い頃から不思議な現象を目の当たりにする機会が度々あった私には別段驚く事ではなかった。それよりも私は彼の美しさに驚き、目を奪われた。淡く金色に輝く毛並みと空を切り取ったような澄んだ空色の瞳をした犬は、困ったように首を傾げて言った。
「名前を返してもらえませんかね。アンタには必要のないものでしょう?」
 そう言われて私は手にした札を見る。なにも答えずにいれば彼は重ねて言った。
「昔、その家に住んでた男に騙されて、名前を奪われちまったんス。アンタがそれを手にしたのは偶然っしょ?」
 妖にとって名前はとても大事なものだ。奪われてしまえば己の名前を奪った相手に従うしかない。私をじっと見つめてくる空色は秋の空のように澄んで美しく、それを見れば私は手にした札をポケットにしまった。
「マジっスか?」
 妖とは思えない口調で彼は言う。ハアとため息をついた彼が尻尾を一振りすると、目の前にいるのは犬ではなく一人の青年になった。
「あの男がいなくなって、ずっと探してたのに……。ねぇ、やっぱり返してくれる気ないっスか?」
「返して欲しければ家に来い――――まぁ、返すかどうかは別問題だがな」
 金髪に空色の瞳をした青年に私はそう言って微笑むと、軒下から出ていつの間にか雨がやんだ通りを家に向かって歩いていった。


 そんなことがあって以来、彼は私の家に通ってくるようになった。
「名前、返してくれませんか?」
 最初のうちは挨拶代わりに言っていた言葉を、一週間も過ぎる頃には口にしなくなった。その代わり家に来ると甲斐甲斐しく私の世話を焼いていく。ある時その理由を尋ねれば、彼は笑って言った。
「だってアンタ、生活能力ないんスもん。メシはワインとパンだし、部屋ん中は散らかってるし……。なんか放っておけないっつうか」
「随分お人好しだな。そんなだから騙されて名前を奪われたりするんじゃないのか?」
「そうかもしれないっスね」
 彼は私の言葉に苦笑する。それでも変わらず私の為に食事を作り洗濯をし、部屋を快適に整えた。彼と過ごす空間はとても居心地がよく、益々彼に名前を返す気持ちを遠ざけた。
「ねぇ、名前返してくれません?」
 彼は時折思い出したようにそう言う。だが、私が笑みを浮かべるだけで答えずにいれば、彼はやれやれと苦笑して私が座る椅子の足元に座り込みのんびりと時を過ごすのだ。


 彼の名を刻んだ札を私は誰の目にもつかない場所にしまい込む。あの優しく美しい妖をいつまでも縛り付けておくために。


2012/10/06


→