| 第一話 |
| 「暑い……」 窓辺に置いた椅子に腰掛けて本を読んでいたロイは、視線を上げてそう呟く。開け放った窓からはそよとも風は入ってこず、直接陽が射さないだけで外と全く気温の差がない室内に、ロイは手の甲で額の汗を拭った。 「水でも撒くかな」 二階の窓から見下ろした庭の木々は、連日の暑さで萎れかかっているように見える。水に触れれば少しは涼しくなるかもと、ロイは本をテーブルに置くとゆっくりと立ち上がった。一階に降り庭に続く扉から外へ出る。カッと降り注ぐ夏の陽射しに、ロイは腕を翳して目を細めた。 庭の片隅にある水道に近づくとホースを繋いで蛇口を捻る。長いホースを水が走り抜ける感触がして、ロイが手にした先端から生温かい水が出てきた。そのまま少し待てば冷たくなった水を、ロイはホースの先を潰すようにして庭に撒く。サーサーと降り注ぐ水を見ていれば、不意に小さな姿が水にじゃれる光景が浮かんでロイは目を見開いた。金色の尻尾を振って楽しそうに庭を駆けたと思うと、ロイを振り向いてにっこりと笑う。その唇がたった一つ覚えた言葉を紡ごうと口を開いた次の瞬間、吹いた風が幻を掻き消した。 「ハ ────」 呼びかけようと言いかけた言葉をロイはグッと飲み込む。サーサーと撒き散らされる水をじっと見ていたロイは一つため息をつくと、水を止めホースを巻き取って庭の隅に置き家の中に戻った。 「ちっとも涼しくならんな」 昔水まきした後はすっきりと涼しくなってのんびり昼寝をしたのにと、ロイはため息をつくと本に手を伸ばした。 この家に住む前、ロイは古びた屋敷に住んでいた。叩きつけるように軍に退役届けを出したロイが飛び込んだ不動産屋で見つけたその屋敷は、幽霊が出るかもと噂がたつほど長いこと誰も住む者もなく放置されていた。どこでも構わないと買って住み始めたその屋敷で、ロイはそれに出会ったのだった。 ロイがそれの存在に気づいたのは屋敷に住み始めてすぐのことだった。ロイの様子を伺うようにちょろちょろと部屋の片隅から覗いていた黒い毛糸玉の姿をしたそれに、ロイはクッキーを置いてやった。少しずつ少しずつ互いの存在に慣れ始めた時、洗濯機の中に落ちて洗剤にかぶれたそれをロイが助けてやるという事件が起きた。その時ロイの写真を見たそれが犬耳と金色のふさふさの尻尾をつけた男の子の姿を取り、そして。 ハボックと名付けられたそれとロイは古びた屋敷で静かに楽しく暮らすようになった。錬金術師であったロイが心に負っていた深い傷を小さなハボックは癒してくれた。二人きり古びた屋敷で楽しく季節を過ごした幸せは、だが長くは続かなかった。ハボックの存在を知った軍の関係者がハボックをロイが作り出したキメラと誤解し、屋敷に押し寄せてくるようになったからだ。ハボックを守るためハボックを置いて屋敷を出て身を隠したロイの耳に屋敷が火事で焼け落ちたと知らせが入ったのは、ロイが屋敷を出て一ヶ月を過ぎた頃だった。 「暑いな」 再び本を読み始めたものの、あまりの暑さにロイはため息をついて本から目を上げる。本を置いて立ち上がると、棚に近づき抽斗から天使の形をした小さな金属片を取り出した。 それはロイが焼け落ちた屋敷の跡で見つけたものだ。ハボックが大好きだった天使の時計に使われていた飾りで、正時になる度音楽に合わせてくるくると可愛い踊りを踊っていた。天使の踊りを見ながらフンフンと調子っぱずれの鼻歌を歌っていた小さな姿が思い浮かんで、ロイは天使の飾りをギュッと握り締めた。 「結局私はなにも守れなかったな」 ロイは手の中の堅い感触を感じながら呟く。錬金術師としての力を使って守りたいと思ったものは業火の向こうに消えた。己の心を癒してくれたたった一つの小さな命さえ結局は守れなかった。 「私は」 言いかけて何を言うべきか判らず手の中の飾りを強く握れば、その堅さに拒絶と非難を向けられている気がしてくる。くしゃりと顔を歪めたロイの手の中で、折れ曲がりそうになった天使がピキンと小さな悲鳴を上げた、その時。 モコ。 モコモコ。 「うわッ?!」 ロイは握り締めた指の隙間からなにやら黒いものが出てきた事に気づいて声を上げる。なんだと開いた手の上で、天使の飾りから湧き出るようにモコモコと黒い塊が出てきたと思うと。 ポン! 小さな黒い毛糸玉が天使の飾りから飛び出した。 「な……ん……」 まじまじとロイが見つめる先で、床に落ちた毛糸玉は伸びをするように伸びたり縮んだりする。それからロイに見つめられている事に気づいたそれは、後ずさるようにスススと床を滑って逃げた。 「待てっ」 慌ててロイが追いかければ、それは棚の後ろに潜ってしまう。ロイは壁に顔を擦りつけるようにして棚の後ろを覗き込んだ。 2012/08/09 |
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