第五十五章


「今なんて言った、ロイ?」
「この家を出る」
 聞こえた内容が信じられず問い返すヒューズにロイが答える。繰り返された言葉が最初に聞いたのと変わらないと判って、ヒューズが言った。
「でも、お前。この間ハボックちゃんはこの家を出られないって────」
「ハボックは置いていく」
 ソファーに座ったロイの隣で小さく丸まって目を閉じているハボックの髪を撫でながらロイが言うのを聞いて、ヒューズは目を見開く。ズイと身を乗り出すようにして言った。
「置いていくって、お前っ」
「このまま一緒にいればハボックを傷つけてしまう。私はここにいない方がいい」
 ロイはそう言うと先日の出来事を手身近に話して聞かせる。話を聞き終えたヒューズはバンッとテーブルを力任せに叩いた。
「乱暴な事しやがってっ」
「ヒューズ、すまんが私とハボックが軍や研究機関の追求を逃れるために逃げ出したという話を流してくれないか?私がここを出ればハボックだけがここにいるとは誰も思わないだろう」
「ロイ」
 ずっとハボックを見つめてその金髪を撫でたまま、自分の方を見ようとしないロイの横顔をヒューズはじっと見つめる。
「お前はそれでいいのか?」
「──ああ」
「ロイ」
「いいんだ。ハボックは私にたくさんのものをくれた。もう────十分だ」
 ロイはそう言いながらハボックの金髪を撫で続ける。それを見ていればもう何も言葉が出てこず、ヒューズはグッと唇を噛んだ。
「判った。お前たちが行方しれずでどこに行ったか判らないって話を実(まこと)しやかに流してやるよ」
「ありがとう、ヒューズ」
 ニヤリと笑ってみせるヒューズにロイは微かに微笑む。そうすればその微笑みに気づいたようにハボックが顔を上げた。
「ろーい?」
「ん、なんでもないよ、ハボック。寝てていいぞ」
 ハボックはそう言うロイを暫くの間じっと見つめていたが、目を閉じて丸くなる。一回り小さくなったその体を見て、ヒューズは眉を寄せた。
「大丈夫なのか?」
「判らん。私にはどうしてやることも出来ないんだ」
 そう言いながら撫でるロイの手にハボックが安心したように身を擦り寄せる。そんな二人をこれ以上見ているのが辛くて、ヒューズは立ち上がった。
「帰る」
「ああ、今日は来てくれてありがとう」
 こちらを見ずにそう言うロイの顔を見つめてヒューズは口を開く。
「ロイ、お前、これから何処に────」
 言いかけた言葉を飲み込んで、ヒューズはそれ以上何も言わずに部屋を出ていった。


「これで全部か。本を除けば何も持っていないな、私は」
 身の回りのものをトランクに詰め込んでロイは言う。家を出るためにいざ荷物をまとめようとすれば、それは意外なほどに少なくロイは苦笑した。
「一年か」
 ハボックと暮らし始めて気がつけば季節が過ぎていた。それが長かったのか短かったのか、ロイにはよく判らなかった。
「ろーい」
 パタンとトランクの蓋を閉めたロイは傍らのハボックを見る。トランクの蓋を押さえるロイの腕にしがみついて見上げてくる空色をロイはじっと見つめた。
「天使の時計は置いていくよ。ビロードのトランクも」
「ろーい」
 そう言えばハボックがにっこりと笑う。ロイはハボックの体を抱き上げるとゆっくりと窓辺に歩み寄った。窓の向こうを見上げれば十六夜の月がぽっかりと浮かんでいる。
「人によっては満月より十六夜の月の方が綺麗だというそうだよ」
「ろーい」
 月を見上げて言うロイにハボックが答えて頬を擦り寄せた。その夜、二人は遅くまで一緒に月を見上げていた。


「じゃあ、ハボック。私は行くよ」
 翌朝。
 家中の鎧戸を閉めて、トランク一つだけを下げたロイが言う。玄関の前で足を止めしゃがみ込むと、ついてきたハボックの頭をロイはそっと撫でた。
「お別れだ、ハボック」
 その言葉の意味が判っているのかいないのか、ハボックがロイをじっと見つめる。その空色を見つめれば、不意に押さえ込んでいた感情がロイの瞳から溢れ出た。
「ハボック、私は……っ」
 続く言葉を見つけられず、ロイはハボックの体を抱き締める。そうすればハボックの小さな手がロイの背中をぽんぽんと叩いた。
「ろーい」
「ハボック」
 ロイの腕の中でハボックは甘えるようにふさふさと尻尾を振る。金色の柔らかい尻尾が揺れるのを見てロイはハボックを抱く腕に力を込めた。もう行かなければと思えば思うほどロイはハボックを離すことが出来なかった。
「ろーい」
 呼ぶ声にロイは少し体を離して涙に霞む目でハボックを見る。ハボックはそんなロイをじっと見ていたが、手を伸ばしてロイの頬に触れると涙に濡れた頬にチュッと口づけた。それからふるりと震えたと思うとポンと弾けて黒い毛糸玉になってしまう。ロイはするりと腕をすり抜けた小さな毛糸玉を慌てて拾い上げた。
「ハボックっ」
 柔らかい毛をそっと撫でるロイの声に答えるように震えた毛糸玉は、ロイの手から飛び降りるとスススと床を滑っていく。そのまま闇の溶けるように毛糸玉は暗がりの中に消えてしまった。
「ハボック……っ」
 毛糸玉が消えた先をじっと見つめていたロイは、やがて涙を拭くと玄関を開けて静かに家を去っていった。


2012/05/26


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