第五十六章


「もう朝か」
 ロイは一晩中本を読んでいたせいで、しょぼしょぼとした目で窓の外を見上げる。夕べの強い風で汚いものが全て吹き飛ばされてしまったように澄んだ青空を眩しそうに見つめたロイは、本を脇に置いて立ち上がると顔を洗うために洗面所へと歩いていった。
 ロイがあの家を出てからひと月が立っていた。家を出る時それまで集めていた本の類は全て置いてきたのでさほどスペースはいらないだろうと借りた小さな家は、今まで以上に本に没頭するようになったロイが買い漁った本で今では足の踏み場もないほどになっていた。
「ふう」
 顔を洗って少しは開くようになった目を瞬かせて、ロイは部屋に戻る。これから一寝入りするか、それともコーヒーでも飲むか、どうするかロイが悩んでいると電話のベルが鳴った。
「なんだ?こんな朝っぱらから」
 この家の電話番号を知っているのは一人しかいない。その男なら昼だろうが夜だろうが時間などお構いなしにかけてくるだろうが、それにしても夜が明けたばかりのこの時間は電話をかけて来るには不向きと思えた。それでも鳴り響く電話をそのままには出来ずロイは受話器を取る。そうすれば思った通りの人物の声が受話器から零れた。
『ロイ』
 聞こえたいつもの陽気な声とはまるで違うヒューズの声にロイは眉を寄せる。
「どうした、ヒューズ。随分早起きだな」
 わざと軽口を叩くように言うロイに、ヒューズはゆっくりと言った。
『ロイ、あの家が焼けた』
「────え?」
『家が焼けたんだ。全部燃えちまった』
 受話器から聞こえる声にロイはポカンとする。耳に入ってくる声がなかなか意味を持たず、すぐには答えられないロイにヒューズが続けた。
『不動産屋から連絡があった。近くで火事があってな、夕べは風が強かっただろう?飛び火であの家も』
 ゆっくりとヒューズの言葉がロイの中で形になる。それにつれてロイの瞳が大きく見開き、受話器を持つ手がブルブルと震えた。
『ロイ、聞いてるか?ロ────』
 心配そうなヒューズに答えず、ロイは電話を叩き切る。そのまま部屋を飛び出し、玄関から外に出ると車庫に停めた古い車に飛び乗った。キーを回せば不満げに唸り出すエンジンに構わず、一気にアクセルを踏み込んでロイは車を走らせる。殆ど速度を緩めることなしに走り続けて、ロイはついこの間まで住んでいた家があった場所にやってきた。
「…………」
 車から降りたロイは目の前に広がる光景に息を飲む。一ヶ月前緑が濃く茂っていた庭の木々は無惨に焼け焦げ、古びた家は焼けて崩れ落ち、原型を留めていなかった。
 ロイは溶けて歪んだ門を押し開け敷地の中に踏み込む。一歩足を踏み出す度靴の下でジャリジャリと残骸が嫌な音を立てた。夏の暑さの中、ハボックと水を撒いてはしゃいだ庭も、冬の寒さの中ハボックが滑って遊んだ小さな池も跡形もなくなくなっている。ハボックがそれだけは口にしていた冷たい水を汲み上げていた井戸は、強い熱で溶けてひしゃげてもう水など干からびてしまっているように見えた。
 庭の惨状を見ていたロイは視線をゆっくりと屋敷があった場所へと向ける。崩れさってところどころ壁や柱が残るその場所にロイは歩いていった。壁と思しき場所を越えて足を進める。少し歩いてロイは足を止めた。
「ダイニング、だったな。ここは」
 焼け焦げたオーブンを見てロイは呟く。初めてハボックがいることに気づいたのはここだった。話しかけてもなかなか出てこないハボックに置いてやったクッキーを、後になってハボックが大事にしまっていてくれた事を知った時は嬉しかったものだ。
「ここはランドリースペース」
 ここから点々と続いていた泡の跡を辿れば、古い洗濯機に落ちて泡だらけになった毛糸玉のハボックが石鹸にかぶれてヒィヒィ泣いていた。綺麗に洗って拭いてやりながら話を聞かせた愛犬の写真を見たハボックが、犬耳と尻尾を生やした小さな男の子に姿を変えたのはこの時だ。それからロイとハボックは二人で静かに楽しく暮らしてきたのだ。
 ゆっくりとゆっくりとロイは崩れた屋敷の中を歩き回る。誰かの姿を探すように視線を巡らせたロイは、瓦礫の中でキラリと光るものに気づいて手を伸ばした。ロイが拾い上げたのは小さな金属片だ。ところどころついた煤を服の袖で拭いたロイは、それが小さな天使だと気づいた。
「これは天使の時計の……」
 ハボックのお気に入りの天使の時計。時計が載った棚にしがみつくようにして時計を眺めながら、楽しそうに調子っ外れの歌を口ずさむハボックの後ろ姿が目の前に浮かんで、ロイは顔を歪めた。
「ハボック、私は」
 自分は彼に何をしてやれたろう。ハボックを守りたくてハボックを置いて家を出た。たった一人残されたこの場所でハボックは寂しくて悲しくて、そんな想いを抱えたまま燃え盛る焔の中消えていったのだろうか。
 手のひらの天使を見つめてロイがそう思った時。
「お兄ちゃん、このおうちの人?」
 子供の声が聞こえてロイは振り返る。そうすれば崩れた壁の向こうに少女が立っているのに気づいた。
「おうち、燃えちゃって哀しい……だって私、このおうち大好きだったの。夜になるといっつも黒いもじゃもじゃが屋根の上でポンポン跳ねて歌を歌ってたのよ」
「……え?」
 少女はその光景を思い浮かべるように宙を見上げて言う。
「部屋の窓から見えたの。あんまり上手じゃなかったけど、とっても楽しそうで優しくて、大好きだったの」
 少女はそう言うと足下の石を蹴って残念そうにため息をついた。丁度その時母親が呼ぶ声が聞こえて、少女は走っていってしまう。その背を見送ったロイは手のひらの天使に視線を移すと、そっと握り締めた。すると。
『ろーい』
 柔らかく呼ぶ声が聞こえて、ロイはハッとして辺りを見回す。だが、求める姿は何処にもなく、ロイはもう一度天使を握り締めた。そうすれば。
『ろーい!』
 再び聞こえた声が手の中からする事に気づいてロイはそっと握り締めた手を開く。手のひらの上の天使をもう片方の手で優しく撫でれば、ロイの頭の中にハボックの声が響いた。
『ろーい』
 ロイの指先が触れる度ハボックの優しい声が響く。その声はロイの記憶にあるままに明るく暖かく、幸せで楽しそうだった。
 ろーい。
 ろーいー!
「ハボック、私は」
 かつてハボックの金髪を揺らした風がロイの黒髪を揺らして空へと吹き抜けていく。
 頭上に広がるハボックの瞳と同じ色の空を、ロイはいつまでもいつまでも見上げていた。


2012/05/27