第四十九章


「あとは……パンか」
 手に抱えた袋の中身を頭の中でチェックして、ロイはパン屋に足を向ける。お気に入りのバケットとデニッシュ素材の甘いパンを買うと、ロイはのんびりと道を歩きだした。
 うらうらと暖かい陽射しが降り注ぐ午後は散歩にはうってつけだ。真っ直ぐ家に帰るのが少しばかり勿体無くて、ロイはいつもは曲がらない角で曲がってみる事にした。
「すごいな、春爛漫だ」
 立ち並ぶ家々の庭を彩る色とりどりの花を見ればロイの顔に自然と笑みが浮かぶ。縁を黄色く染めた赤いチューリップや濃い紫色のパンジー、白い可憐なスズランまでもが咲いていて、その鮮やかさに目を奪われて歩みが遅くなった。
「ハボックが見たら大騒ぎしそうだ」
 綺麗なもの、可愛いものが大好きなハボックは春になってから忙しい。庭に咲く山吹や雪柳の花を少しずつ集めては皿に張った水の上に浮かべて楽しんだり、ライラックの木の枝でよい香りに包まれて調子っ外れの歌を歌ってみたり、とにかく次々と花開く庭の木々の間を走り回ってはその色や香りを楽しんでいるのだ。
「そうか、花屋でチューリップの鉢植えでも買ってくればよかった」
 誰が植えたのか庭には雑多な木々が植わっていたが、草物は殆どない。チューリップやパンジーの鉢植えを置いてやったらハボックが飛び跳ねて喜ぶのは間違いなかった。
「次に買い物するときに買ってやろう」
 ロイはそう思いながら家々の庭を横目に見て歩く。丁度さしかかった角を曲がったロイは、飛び込んできた景色に目を奪われた。
「すごい……」
 白にほんのりピンクの混じった花が満開に咲き乱れ空いっぱいに広がっている。ゴツゴツとした幹に似合わぬ清楚な花が枝いっぱいに咲き誇る様は魂が抜かれてしまうと思えるほどに美しく、ロイは道に立ち尽くしたままポカンとして花を見上げた。
「こんにちは」
 その時不意に声がかかって、ロイはハッとして辺りを見回す。そうすれば道の上に張り出した花いっぱいの枝が繋がる先の木の下に、初老の女性が立っていた。
「こんにちは、見事な花ですね。思わず見とれてしまいました」
 ロイが答えてそう言えば女性が笑みを浮かべる。
「桜の花よ。私がお嫁にくる時に国から苗木を持ってきて植えたの。その時からずっと一緒」
「そうなんですか」
 そう言って桜を見上げる女性の目には花を愛おしむ光が宿っていた。おそらく、苦しいときも楽しいときも悲しいときも、いつもいつもこの花は女性と共にあったのだろう。青く晴れた空をバックに咲く花はそれ自体が輝いているようにすら見える。じっと見上げていれば不意にハボックにも見せてやりたくなって、ロイは花を見上げる女性を見て言った。
「不躾なお願いとは思いますが、桜をひと枝分けては頂けないでしょうか?」
 そう言えば女性が驚いたようにロイを見る。
「見せてやりたい相手がいるんです。でも、家から出られないので」
 ハボックがあの家から離れられるのであれば幾らでも連れて見せてやれる。だが、それが無理であれば花の方を持っていってやるしかなかった。
「駄目、でしょうか。ほんの少しでいいんです」
 答えない女性にロイは繰り返す。だが、じっとロイを見つめたきりなのを見れば、大切な木を切るなど出来るはずもなかったとロイは肩を落とした。
「すみません、無理なお願いをしました。あまりに綺麗なので」
 見せてはやりたいが仕方ない。ロイは女性に軽く頭を下げると家に帰ろうと歩きだした。だが。
「ちょっと待って」
 背後から声がして振り向くと女性が家に駆け込むのが見える。少し迷ったもののロイがそのまま待っていれば、女性が園芸用の鋏を持って出てきた。そうして女性の力でも切れる程度の枝を選んでパチンパチンと切り落とす。持ち易いよう根本を纏めて縛るとロイに差し出した。
「どうぞ。持っていってあげて」
「……ありがとうございます!」
 にっこりと笑う女性から桜の枝を受け取って、ロイは礼を言う。深々と頭を下げるとロイは足早に歩きだした。早歩きがだんだんとスピードを増して駆け足になる。ロイは家への残りの道のりを一気に走るとたどり着いた家に飛び込んだ。
「ハボック!」
 大声でハボックを呼びながらドカドカと中に入る。そうすれば何事かとハボックが顔を出した。
「ろーい?」
「ハボック、ほら」
 きょとんとするハボックの頭上にロイは桜を翳す。薄桃色の花が咲き誇る枝を見上げたハボックの目がまん丸に見開いた。
「綺麗だろう?桜というそうだよ。お前に見せたくて貰ってきたんだ」
 ロイはそう言って軽く枝を揺する。そうすれば花びらがひとひらふたひらと、ハボックの目の前に落ちた。ハボックは小さな手を広げて舞い落ちた花びらを受け止める。その淡く色づいた花びらをじっと見つめて、それからもう一度頭上の枝を見上げた。
「この花が幾重にも幾重にも重なってな、とても綺麗なんだ。本当は連れていってやれればいいんだが」
 そう言うロイの言葉をハボックが小首を傾げて聞く。金色の犬耳がピクピクと動いたと思うと、ハボックが嬉しそうに笑った。
「ろーい」
 そう呼んでロイの脚にギュッと抱きつく。そうしてロイの持つ桜を首を反らして見上げた。
「ろーい」
 見上げるハボックの空色の瞳に桜が映る様がロイがさっき見た桜の光景と重なる。ロイは目を細めてハボックの瞳を覗き込んだ。
「ああ、丁度こんな感じだった」
 そう言えばハボックがロイを見上げて嬉しそうに笑う。
「ろーい」
 ロイの脚に片手でしがみついたままもう片方の手を桜に伸ばすハボックの金髪に、桜の花びらがはらはらと舞い落ちた。


2012/04/17


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