第一話


「本当にここでいいんですかい?」
 と、ロイを案内した不動産屋の男が尋ねる。ロイは大きな古びた屋敷を見上げて頷いた。
「ああ、ここは静かで落ち着けそうだ」
「まあ、静かっちゃ静かだけど……出るって噂もあるんだよ?」
 男はそう言って身を震わせる。それでも屋敷を見上げて満足そうな笑みを浮かべているロイを見て、ため息をついた。
「旦那がいいって言うなら止めませんけどね。鍵はこれです。中見て、やっぱりやめるっていうならそれでも構わないから」
 全く買い手のない物件を押しつけるどころか、見て嫌ならやめてもいいとまで言う良心的な男にロイは笑って言った。
「やめるなんて事はないよ。契約の内容はさっき話したとおりでいいから、書類を作って後で持ってきてくれ」
「判りました」
 男はロイに鍵を渡して肩を竦める。
「まあ、うちとしちゃ大助かりだよ、旦那。それじゃあ」
「ああ」
 そう言って立ち去る男の背を少しの間見送ったロイは、建物を振り返ると古びた門を開いた。そうして短いステップを上がり大きな厳つい扉に不動産屋から受け取った鍵を差し込む。ギィと軋んだ音を立てて開いた扉から、ロイは中へと足を踏み入れた。


 長いこと誰も住むことのなかった家はひんやりと静まり返っている。うっすらと埃の積もる廊下をロイはゆっくりと歩いていった。カーテンのない大きな窓から射し込む光にロイの足下から舞い上がった埃がきらきらと反射してまたゆっくりと床に落ちていく。ロイは古い瀬戸物のバスタブがおかれた浴室を覗き、年代もののオーブンと大きなコンロが並ぶキッチンを覗き、そうして二階へと上がっていった。左右に二部屋ずつ並ぶその一番奥の部屋の扉を開けて中へはいる。大きな窓を開ければ最低限手入れされていると言えるような庭が見下ろせた。
「いいじゃないか」
 ロイは満足げに呟いて窓から身を乗り出すようにして空を見上げる。久しぶりに身の内の空気を入れ換えるのを家が喜んでいるかのように、ロイの脇をすり抜けて初夏の風が家の中を吹き抜けていった。


 午後になって不動産屋の男が持ってきた書類にサインをしロイが正式にこの家の主になりはしたものの、まだ荷物は届いておらずロイはほぼ身一つの状況だった。
「旦那、よかったらこれ。腹の足しくらいにはなるでしょう」
 そんなロイに男は貰いものだといってスープや魚の缶詰とクッキーを差し出す。
「すまんな、助かるよ」
「うちもこんな曰く付きのぼろ屋にあんなに金出して貰ってすごく助かったから。なにかあったら声かけて下さい」
 そう言って帰っていく男を礼の言葉と共に見送ったロイは、二階の部屋の窓際に椅子を引っ張りだして本を広げた。吹き込む風に髪を嬲らせながらロイは瞬く間に本の世界に没頭する。気がつけば辺りはだいぶ薄暗くなり、ロイは腹の虫が訴える声で時間の経過に気づいた。
「そろそろ飯にするか」
 ロイはそう独り言つと立ち上がって伸びをする。階下に降りてキッチンの明かりをつけ、スープの缶詰を手に取った。
「……使えないことはないな」
 ロイはキッチンの戸棚の中に置き去りにされていた鍋を取り出しそう呟く。水を使って気持ちだけ洗うとスープを開けて温めた。コトコトという音と共に部屋の中にいい匂いが漂う。焦げ付かないようこれまた抽斗に残っていたスプーンで鍋をかき混ぜていたロイは、視界の隅を横切った影に気づいて手を止めた。
「…………?」
 どこからか猫でも入り込んだのだろうか。ロイはそう思って鍋の火を止める。影がいた方に歩いていくと戸棚の陰を覗き込んだ。
「……気のせいか?」
 覗いたそこには昏い闇があるばかりで生き物の姿はない。ロイは首を捻ったものの自分の思い違いかとコンロの前に戻った。だが。
「…………」
 やはり同じように視界の隅を掠めるものの気配にロイは後ろを振り向く。どうやらロイが背を向けている間だけ動いているらしいそれに、ロイは腕を組んでため息をついた。
「いるなら出てこい」
 なにがいるのか、いたとして言葉が通じるのか判らないもののロイはそう口にする。だが、少し待っても姿を現さないのを見て、ロイはもう一つため息をついた。
「まあ、いい」
 ロイは呟いてもういい加減温まったスープを鍋ごと持ってテーブルについた。
「いただきます」
 行儀よくそう言ってロイはクッキーをスープにつけて口に運ぶ。スープの熱さにはふはふと息を吐き出しながら三分の二ほども食べたところで、ロイの目の前をササーッと影が横切った。
「…………腹を空かしているのか?出てくれば分けてやるぞ」
 ロイは影が飛び込んだオーブンの向こうに向かってそう声をかける。だが、やはり出てくる気配のないそれにため息をつくと鍋に残ったスープを平らげてしまった。
「出てこないお前が悪いんだぞ」
 誰にともなくそう言ってロイは鍋をシンクに入れる。水を張って二階へ行こうとしたロイは、少し考えてハート型のクッキーを二つテーブルの上においた。
「おやすみ」
 そうして小さく呟くと、ロイはキッチンの明かりを消して出ていった。
 シンと静まり返ったキッチンにこそこそと小さな影が現れる。影は椅子によじ登るとテーブルに置かれたクッキーを掴み、そうしてサササと闇の中に戻っていった。


2011/06/03


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