天鵞絨の檻  第二章


「あ、ヒューズさん、いらっしゃい!」
 カランとドアベルが鳴る音に振り向いたハボックは、店の扉を開いて中に入ってくる姿を見て声をあげる。客が帰った後のテーブルに残された食器をトレイの上に積み重ねて、布巾でテーブルを拭くとヒューズに向かっていった。
「ここどうぞ」
「ああ」
 言われてヒューズが寄ってくるのに目を細めると、トレイを手に厨房へと引っ込む。トレイごと洗い場のカウンターに食器を置くと、丁度椅子に腰を下ろしたヒューズのところへ戻ってきた。
「こんばんは、いつものでいいっスか?」
「ああ」
「後は?今夜のオススメは鶏のピリ辛揚げとアサリ入りラタトゥイユっスよ」
「腹は減ってない、酒だけでいい」
 ヒューズの答えにハボックは呆れた顔をする。煙草に火をつけフゥとため息混じりに煙を吐き出す男を眉間に皺を寄せて見下ろした。
「まぁたそんな事言って。ヒューズさん、いっつもそう言ってろくに食わないじゃないっスか。体によくないっスよ」
 ハボックがそう言ってもヒューズは煙草の煙を吐き出すばかりで答えない。そんなヒューズにハボックはため息をついて店の奥へと戻っていった。


 暑い夏の夕暮れ、偶然出会ったハボックにヒューズが再び出会ったのは気まぐれで入った店での事だった。店の奥の席に案内されて腰を下ろした途端、名を呼ばれて訝しげに上げた視線の先にハボックが笑って立っていたのだ。それ以来ヒューズはハボックがウェイターとして働いているこの店に時折ふらりと立ち寄るようになり、今夜もまたそんな気まぐれで立ち寄ったところだった。


「お待たせしました。あとこれはオレの奢り」
 心地よい喧噪の中、ゆったりと煙草の煙を吐き出していれば、目の前にグラスと一緒に置かれた皿にヒューズは眉を顰める。その表情のまま見上げれば、ハボックがにっこり笑って言った。
「ちゃんと食べなきゃダメっスよ。パンにのっけて食べると旨いっスから、これ」
 そう言ってハボックが押し出した皿にはラタトゥイユとスライスしたパンがのっている。見上げてくるヒューズに頷くと、ハボックは客の呼び声に答えてヒューズから離れていった。
「余計な事を……メシなんて必要ないっての」
 ヒューズは離れていく背を見送ると、テーブルの上の皿に視線を戻す。フォークを手に取りグチャグチャと煮込んだ野菜を掻き混ぜた。
 人ならざる身であるヒューズには食事の必要がない。彼が生きていく為に必要とするのは人の生き血に宿るエナジーだけで、それだけを生きる糧にしてヒューズはもう数え切れない時を過ごしてきた。
 己が闇に属する身に堕ちたのがいつのことだったか。あまりにも遠い記憶はもはや定かではない。正直覚えていたところでそれが何かの役に立つわけでなく、ヒューズは昏く澱んだ血をその胸に抱えたままもう何十年もこの街にとけ込んで生きてきたのだった。
「お節介野郎め」
 ヒューズはテーブルの間を人懐こい笑みを浮かべて歩き回るハボックを見つめて低く呟く。弱い照明に照らされた店の中でもキラキラと輝く金髪は人目を惹いて、明るい笑顔と相まってハボックを魅力的に見せていた。
(……気に入らねぇ)
 ヒューズは皿を掻き回しながらそう思う。人に好かれる明るく屈託のない笑顔は、ヒューズから見ればただの癇に障るそれに過ぎなかった。
(あの顔、苦痛に歪ませてやりてぇ)
 ヒューズは昏い常盤色の瞳でハボックを見つめて思う。じっと見つめていればその視線に気づいたのか、ハボックがヒューズの方を見てニコッと笑った。その笑顔のままヒューズのテーブルに寄ってきたハボックは、皿の中身がちっとも減っていないのを見て眉を寄せた。
「全然食べてないじゃないっスか。これ、旨いっスよ?騙されたと思って食べてみてくださいよ」
 ね?と小首を傾げて見せるハボックをヒューズはじっと見つめる。なにも言葉を発せずじっと見つめてくる常盤色に、ハボックが困ったように身じろぎした時、ヒューズの手がハボックの手首を掴んだ。
「えっ?」
 グイと引き寄せられ間近からヒューズの瞳を覗き込む体勢になって、ハボックは空色の瞳を見開いた。
「他の誰も見るなよ」
「え?」
「お前が他の奴に笑いかけるのを見ると、苦しくてメシどころか酒も喉を通らねぇ」
 低く囁く声にハボックが目をまん丸にしてヒューズを見る。まじまじと見つめてくる空色に、ヒューズがクッと笑った。
「本気にしたか?」
「────もうっ、ヒューズさんってば!」
 クククと低く笑う男にハボックが顔を赤らめて身を離す。ニヤニヤと笑って煙草の煙を吐き出すヒューズを睨んでハボックが言った。
「あーっ、びっくりした!女の子だったらきっとイチコロっスよ」
「そうか?」
「うわ、顔が熱いっ」
 パタパタと片手で赤くなった顔を扇いでハボックが言う。まだヒューズに掴まれたままだった手をヒューズのそれから抜こうとすれば、キュッと掴まれてハボックは目を見開いた。
「本気だと言ったら────どうする?」
 低く囁く声にハボックが目を瞠る。その瞳を見つめたままヒューズは掴んだままだった手を持ち上げ、その指先に舌を這わせた。
「ッッ!!」
 ビクッと震えて手を引こうとしたハボックにそうさせず、ヒューズはハボックの指に歯を立てる。チクリとした痛みが指先に走って、ハボックが反射的に手を引けば今度はヒューズがすんなりと手を離した。
「かっ、からかわないでくださいよッ」
 噛まれた指を口元に引き寄せてハボックが言う。面白がるような常盤色を睨むと、ハボックはヒューズに背を向けてテーブルから離れようとした。
「それ、ちゃんと食ってくださいね!」
 離れざま肩越しに振り向いてハボックはそう言うと、今度こそ逃げるように行ってしまう。
「いい味だ」
 その背を見送りながら唇についた血を舌先で舐めて、ヒューズは低く笑った。



「他の誰も見るな」


→ 第三章