天鵞絨の檻  第一章


「あっ、こらッ!待て!」
 ゆっくりと夏の陽射しを避けるように影が差している場所を選んで歩いていれば、不意に聞こえた声にヒューズは足を止める。気配に振り向くと大きな犬がヒューズめがけて駆けてくるのが見えた。
「グルルルル」
 犬はヒューズのすぐ側で足を止めると頭を下げ、警戒のポーズを取りながら低く唸る。今にも飛びかかるのではと思えるような犬の様にヒューズは怯えるどころか驚きもせず、その常盤色の瞳で冷たく見下ろした。
「グ……」
 その視線に犬は怯んで後ずさる。まるでヒューズから目を逸らせば襲いかかられるとでも言うように、ヒューズを見つめたままゆっくりと後ずさる犬を、駆け寄ってきた青年が背後から抱え込むようにして取り押さえた。
「ダンテ!!」
 青年は犬を叱責するとヒューズを見る。申し訳なさそうに眉を寄せて言った。
「すんませんっ、大丈夫だったっスか?驚いたっしょ?ごめんなさいッ!」
 青年はそう叫ぶように言うと、犬の頭を押さえつけるようにしてヒューズに向かって頭を下げる。それからもう一度顔を上げてヒューズを見つめた。
「本当にごめんなさい。コイツ、今までこんな風に誰かに凄んだことなんてないのに……」
 青年はそう言いながら犬の頭を小突く。そうすれば犬はすまなそうに鳴いて青年に体を擦り寄せた。
「構わねぇよ。動物に嫌われるのは慣れてるからな」
 ヒューズはそう言ってニヤリと笑う。そう聞いて青年は少しホッとしたような顔をした。
「でも、デカい犬はそれだけで怖いと思う人もいるから。一応ちゃんと躾てたつもりなんスけど、いきなり走り出しちゃって」
 まったくお前は、もう、と青年は犬を睨む。おそらく普段はリードなどなくてもきちんと主人に付き従い、無駄に吠えたりする事もないのだろう。だが、そんな犬だからこそ自分に対して威嚇するのは至極当然な反応だとヒューズは思った。
「それにしても暑いっスね」
「そうだな」
 青年は立ち上がって言うと晴れ渡った空を見上げる。その瞳が空の色と同じことに気づけば、ヒューズは目を細めて青年を見た。
「まさしく今日の天気だな」
「えっ?」
 そんな風に言われて青年はキョトンとする。空の色を映した瞳を縁取るのは髪と同じ金色で、蜂蜜色の金髪に空色の瞳の青年は夏そのもののように見えた。
「ええと」
 ヒューズが何か言ってくれるかと待っていたらしい青年は、沈黙しか返ってこないのに困ったように視線をさまよわせる。もうこれ以上は話すこともないだろうと思ったのか、青年はにっこりと笑って言った。
「驚かせてすんませんでした。じゃあ、オレはこれで」
 青年はそう言うと犬を促して歩きだそうとする。ヒューズは背を向けた青年を呼び止めて言った。
「待てよ。ちょっとその辺で涼んでいかねぇか?」
「え?」
「犬の散歩にはまだちょっと暑いだろう?」
 ヒューズはそう言って輝く太陽を見上げる。青年は眉を下げて答えた。
「オレもまだ暑いなって思ってたとこっス。そろそろ涼しくなるかと思って出てきたんスけど」
「犬は肉球でしか汗がかけないからな、飼い主が気をつけてやらんと簡単に暑さでやられるぞ」
「はい……」
 首を竦めて答える青年にヒューズはフンと笑うと促すようにして歩き出す。青年は犬と一緒について歩きながらヒューズに向かって言った。
「オレ、ハボックって言います。コイツは」
「ダンテだろ。俺はヒューズだ」
 ヒューズの前で一度だけ呼んだ名をちゃんと覚えていてくれた男にハボックが嬉しそうに笑う。ヒューズはさほど遠くないところにある喫茶店にハボックを案内した。
「アイスコーヒーでいいか?」
「えと……パフェがいいかなって。────あっ、やっぱコーヒーでいいっス!」
 テーブルに向かい合わせで座ったヒューズの常盤色の瞳で見つめられて、ハボックは慌てて言って俯く。そんな様子にクッと笑って、ヒューズはやってきたウェイトレスを見て言った。
「アイスコーヒーとフルーツパフェ。それとコイツに冷たい水をくれ」
「かしこまりました」
 犬用の冷たい水まで注文するヒューズにハボックは目を瞠る。それからにっこりと笑って礼を言った。
「ほんと毎日暑いから困っちゃって。夜に散歩連れていければいいんスけど、オレ、仕事あるから」
「少し毛をすいてやるといい。短く刈りすぎると日除けの毛ががなくなってかえって直射日光を浴びてしまうことになるからよくねぇんだ。首の周りとか脚の付け根とか、太い血管があるところを重点的に毛の量を薄くしてやれ」
「……はい」
 ヒューズの言葉にハボックは空色の目を見開いて頷く。
「犬のこと、詳しいんスね、ヒューズさん」
 感心したように言うハボックにヒューズが肩を竦めた時、ウェイトレスがトレイを手にやってきた。
「お待たせしました」
 言ってウェイトレスはヒューズの前にアイスコーヒーを、ハボックの前にフルーツパフェを置く。最後に犬の前に冷たい水が入った器を置いて犬の頭をひと撫ですると戻っていった。
「いただきますっ」
 ハボックは嬉しそうに笑うと早速スプーンを手にパフェを食べ始める。水を飲む犬に話しかけ、ヒューズに向かって笑って話しかけるハボックに答えながらヒューズは思った。
(俺の一番嫌いなタイプだな)
(まるで夏の陽射しそのものだ、キラキラと輝いて)
(この世の中にはなんの苦しみも哀しみもないって信じきった顔だ)
 ヒューズは楽しげに笑いながら話すハボックをじっと見つめる。
(そんなものはまやかしだって教えてやろうか)
(この腕の中で絶望を味わわせてその輝きを粉々に砕いて)
(────壊してやりたい)
「ヒューズさん、聞いてます?」
「──ああ、聞いてるぜ」
 そう答えれば嬉しそうに笑うハボックを見つめるヒューズの姿は、店のガラスに映ってはいなかった。



「ダキシメテ壊したい」


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