| アフ・チュイ・カック 第一章 |
| 「ちきしょ…どっち行けば村に帰れるんだ」 ハボックは張り出した岩の影から、真っ黒に垂れ込めた雲から滝のように降り注ぐ雨を見つめてため息をついた。ほんの僅かな岩の庇は激しい雨の前では大して役に立たず、ハボックは全身ずぶ濡れだった。刻一刻と暗くなって行く空に、夜がすぐそこまできていることを感じて、ハボックは焦る。どうしたものかと逡巡し、だが、一向に良くなる気配のない天気に、ハボックはえいと庇の下から足を踏み出した。途端に服ごと水の中に飛び込んだような状態になり、先程までの方がまだましだったのだと実感する。水を含んでずっしりと重たくなった服に地面に引き倒されそうになりながら、ハボックは一歩一歩ゆっくりと進んだ。 「くそ…早くこの薬草届けなきゃなのに」 村の子供が流行り病で倒れた。普段なら薬師の所に保存してある薬草で簡単に治ってしまうものだが、生憎ここの所の雨続きで薬草を手に入れることが出来ず、薬の在庫が底をついていた。ハボックは苦しむ子供の姿を見かねて雨の合間に山に入ったのだが、再び降り出した雨に道を塞がれてしまった。視界の悪い中進む山は普段と景色を変えていて、ハボックは村に帰る道を見失ってしまっていたのだった。それでも何とか戻る道を見つけようと歩いていたハボックだったが、降り注ぐ雨にすぐ先の道さえ見えず。 「え…あっ?!」 ずるりと足を滑らせたハボックは泥水と共に崖から滑り落ちてしまった。 「つぅ…」 仰向いたまま暫く雨に打たれていたハボックは腰を擦りながらゆっくりと立ち上がった。幸運にも擦り傷を負った以外、どこか痛めた様子はない。それでも落ちた場所を見上げれば到底よじ登れる高さではなく、ハボックはため息をつくととぼとぼと歩き出した。 「サイアク…」 まさか子供の頃から慣れしたんだ山で迷うとは思わなかった。ハボックは泥まみれの体を雨に打たれながらどこか体を休める場所を探して歩き続ける。やがて目の前にぽっかりと空いた洞窟が現れ、ハボックは一瞬躊躇ったものの中へと入っていった。入口を入るとき、なにやら銀色に輝く石のようなものが視界を掠めたが疲れきったハボックはさして気にも留めずに中へと入っていく。入ったばかりの時は暗闇に目が慣れなかったが、じっとしているうちに辺りにぼうっと光る苔のせいで何となく様子がわかってきてハボックは首を傾げた。 「村の近くにこんな洞窟、あったっけ…?」 ハボックは注意深く辺りを見回しながらとりあえず腰を落ち着ける場所を求めて洞窟の中へと進んでいった。暫く行くと透明な水の湧き出ている泉が現れ、ハボックはその泉で泥のついた手を洗うと、近くの岩に腰を下ろす。 「参った…」 ぼそりと呟いて体の脇に手をついたハボックの指に、なにやら硬質なものが当たった。 「…?」 なんだろうと拾い上げてみれば、クリスタルで出来たメダルのようなものだった。自然が形作ったものなのかはたまた人の手によるものなのか、薄暗い中ではよく判らなかったがとても綺麗なものであることは確かで。ハボックは暫く指先でそれを弄んでいたが、ふとあげた視線の先に手にしたメダルとよく似た紋様が壁に刻まれている事に気がついた。 「なんだ、これ」 ハボックは立ち上がるとメダルを持ったままその指先で紋様をなぞる。そうしてその横に刻まれた小さな文字に気がついたとき、思わずそれを口に出して読んでいた。 「我、契約の印を持つ者なり。古よりの定めに従い我と汝の命の糸を絡めよ…?」 そうしてその後に続く3つの文字を読み上げた瞬間、ハボックの手の中のメダルと壁の紋様が目が眩むような光を放った。 「――っっ?!」 咄嗟に腕で顔を覆ったハボックが辺りを埋め尽くす光が収まったのを感じ取ってゆっくりと目を開ける。ハボックは自分の目の前に青年が立っている事に気がついてまじまじとその姿を見つめた。細身の体を包むのは一目で上質なものと知れるスーツだ。黒をベースにしたそれは鈍い光を放つ銀糸でところどころ装飾がなされており、都会でなら普通に見られるものであったかも知れないが、このような田舎の、しかもろくに光の射さない洞窟でお目にかかるにはあまりに洒落たものだった。そうしてまた、その洒落たスーツを身に纏う青年は。 大理石の肌、サラリと流れる艶やかな黒髪、桜色の唇。そして何より印象的だったのは綺麗な顔の中で強い光を放つ黒曜石の瞳だった。呆けたように青年の顔を見つめているハボックにその青年は不愉快そうに眉間に皺を寄せると言った。 「おい、貴様一体どこから入ってきた」 「…え?」 「この洞窟の入口には結界が張ってあったはずだ」 「結界?」 わけが判らないと言う顔をするハボックに青年は盛大に舌打ちするとなにやら小さく呟く。すると小さな光の珠が現れてすぅっと入口の方へと飛んでいった。暫くして返ってきたそれに耳を傾けるような仕草をしていたが、思い切り不満そうな顔をすると手を振って珠を消す 「豪雨で結界を刻んだ石が流されたようだな」 そうして改めてハボックの方に向き直ると青年は口を開いた。 「ではもう一つ聞く。貴様何故契約の方法を知っていた?」 「け、契約?」 すっかり呆けてまともな返事を返さないハボックに青年は苛々としてハボックが手にしたメダルを指差して怒鳴る。 「そのメダルだっ!それとあの3つの言葉。どこで聞いてきたんだっ?!」 怒りに燃えるその瞳を綺麗だと思いながらハボックは答えた。 「メダルはそこに落ちてたから。言葉はそこの紋様の横に刻まれて…」 ハボックが指差す先を見た青年はハボックに視線を戻すという。 「古代文字だぞ、普通の人間には読めないだろう?」 「オレの家、呪術師の家系だから。力としてはもう、殆んど残ってないけどそういう文字が載った本ならガキの頃から山ほど見た」 空色の瞳を驚きに瞬かせてそう答えるハボックを青年は忌々しげに見つめた。近くの岩の上にドサリと腰を下ろすと腕を組んでハボックを見上げる。 「ではお前はここがどこかも私が誰かも判らずあの契約を唱えたというのか?」 青年の鋭い眼光に押されながらも頷くハボックに青年は額に手をやると深いため息をついた。 「信じられん。こんなヤツと契約を結んだなんて…」 ハボックはがっくりと肩を落とす青年に近づくと聞く。 「あの、さっきから契約ってなんスか?それとアンタは一体…」 青年は落としていた視線を上げるとハボックをじっと見つめた。その綺麗な黒曜石の瞳にハボックは心臓がドキドキと高鳴るのを感じる。 (何、ドキドキしてんだろう、オレ…) わけのわからない胸の高まりにハボックは思わず視線を逸らした。それでも自分の頬に強く感じる視線に顔が 熱くなっていくのを感じる。 「お前、呪術師の家系だと言ったな。白か?」 「あ、そうっス。白呪術の方。」 「だったら聞いた事がないか?この山に住む精霊の話」 「山に住む精霊?」 ハボックは青年の言葉に必死に記憶を探る。山に住む精霊の話…?精霊の…。 「あ」 その時、ハボックの脳裏にもう随分前に亡くなった祖母の声が蘇った。 『あの山の奥深くに銀色の岩に閉ざされた洞窟がある。そこにはそれは力のある精霊が住んでいるから、決して そこへ近づいてはいけないよ。その精霊の力はとてつもないもので、もし彼を怒らせるような事になれば この村どころか世界だって燃やしつくされてしまうかもしれないのだから』 まだ幼い時分に聞いた話で聞いた当初はとても怖いと思ったものだが、年を経るにつれすっかり忘れ去っていた話だった。ハボックは目の前の青年をまじまじと見つめる。 「え?精霊?え、ええっっ?!」 突然素っ頓狂な声を上げたハボックに青年はワザとらしく耳を塞いだ。ジロリと見上げるその黒い瞳にハボックは驚いたように言う。 「精霊っ?!アンタが?だってどう見たって普通の人間…」 岩の上に座っている青年はとても綺麗だということを覗けば普通の人間にしか見えない。 (いや、むしろこれだけ綺麗ってことが人間じゃないってことなのか?) ハボックはそう考えて青年を見た。青年ははああ、とため息をつくとハボックに言う。 「まったく、まともに契約方法も知らんヤツと契約してしまうだなんて」 至極不満そうに言う青年にハボックは慌てて言った。 「偶然とはいえアンタと契約しちゃったのは悪かったっスよ。何も知らなかったんだからそんな契約反故にして…」 「出来るものならとっくにそうしてる」 「え?」 「契約の文言を覚えてないのか?」 青年は苛々とハボックを見て言う。 「命の糸を絡めろとあったろう。契約はお前の命が尽きる時まで、だ」 「は?」 「…ったく!」 呆けた顔をするハボックに青年は思い切り舌打ちすると立ち上がった。 「契約はお前の命のある限り有効だ。私の存在はお前という存在に繋がれたんだっ!」 ビシリと指差されてハボックはポカンとする。次の瞬間。 「え…えええ―――っっ?!」 ハボックの間抜けな声が洞窟に響き渡った。 |
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