心の奥深くに眠る君へ  第五章


 一人で過ごす時間に耐えかねて、ハボックは家を出ると夜の街をとぼとぼと歩いていた。
 もう、何日もまともにロイと口をきいていない。それでも時折強く感じる視線に慌てて振り向けば、辛そうに目を逸らすロイの姿があった。
(わかんない…わかんないよ、オレ…)
 ロイが何を求めているのか、自分はどうしたいのか、考えれば考えるほど答えは見えなくなっていく。ぼんやりと歩くハボックの視線の先に黒髪のすらりとした姿を見つけて、ハボックは思わず走り出していた。
「たいさっ」
 その肩を掴んで振り向いた男の顔がまるで知らないものである事に、ハボックは息を飲むとゆっくりと手を離した。
「ご、めんなさい…人違い…」
 消え入るような声で呟くハボックを男は驚いて見つめていたが、踵を返して戻ろうとしたハボックの腕を掴むと言った。
「アンタ、一人?」
 その手の強さに驚きながらも頷くハボックに男は笑うと言葉を続ける。
「だったら付き合えよ。俺も一人で退屈してたんだ」
 そう言って笑う黒い瞳に、ハボックは逆らうことが出来ずに腕を引かれるまま男についていった。

「ほら、もっと飲めって」
 安酒場のカウンターに座ると、男はハボックに酒を薦めてきた。まるで機械油のようなその酒は、味も香りもないくせにハボックの体を急激に酔わせていく。
「も、ちょっと休ませて…」
 次々と注がれる酒にハボックが辟易してそう言っても、男は酒を薦める手を休ませようとはしなかった。普段ならちょっとやそっとじゃ酔わない自信のあるハボックだったが、酒の質が悪いせいか、瞬く間に酔いが回っていく。
「ごめん…ちょっと風にあたりに…」
 ハボックはよろよろと立ち上がると店の扉を開けて外へと出た。男が勘定を済ませて追ってくるのにも気がつかず、ふらふらと歩き出す。途端に脚をもつれさせて倒れそうになるハボックを、追いかけてきた男が咄嗟に支えた。
「おい、大丈夫かよ」
「あ、ごめ……」
 ハボックは男の手を払うと覚束ない足取りで歩き出す。男が支えるように肩に手を回すと、人通りのない公園の方へとハボックを誘い込むように歩いているのにも気がつかず、ハボックの気持ちはロイの方へと向いていた。ロイのことを想うたび、胸がつきんと痛くなる。それがどういうことなのかハボックにはまるで判らなかった。
(たいさに聞いたら判るのかな…)
 酔いに回った頭でそう考える。だが、次の瞬間、オレンジ色に染まる執務室にいるロイの姿が浮んで、ハボックはふるふると首を振った。
(オレが思い出さなきゃダメなんだ…)
 そう思って必死に心の奥底を探るが、掴もうとする度するりと逃げていくものにハボックは絶望して唇を噛み締める。その時、ぐいと強く腕を引かれて物思いから引き戻されたハボックはハッとして顔を上げた。
 気がつけば、そこは薄暗い公園の中で、あげた視線のすぐ先には男の顔があった。ギクリとして離れようとしたハボックの腰を引き寄せて、男が唇を合わせてくる。そのぬるりとした感触が唇に触れた瞬間、ハボックは思い切り男の体を突き飛ばしていた。
「嫌だっ!」
 闇雲に走り出すハボックの後を男の声が追いかけてくる。
「おいっ、待てよっ!お前だってその気でついてきたんだろうがっっ!!」
 ハボックはその声から逃げるように必死に公園を走りぬける。追いかけてくる荒い呼吸と怒声に竦み上がる体を叱咤して走るハボックがあっと思ったときには公園の木々を抜けて、ぱっと開けた空間に飛び出していた。
 その瞬間。
 パッパァァッッ!!
 クラクションの音と共に眩しいヘッドライトの光がハボックの体を照らし出した。

 ロイは眠る女の体から身を起こすと身繕いを始めた。何もかも忘れてしまいたいと激しく求めた後にはただ空しさが残るだけだった。以前の自分であれば、女性の肌につまらぬ思いなど忘れてしまったものだったが、ハボックを愛している今では女との行為はただ空しいだけだった。このまま朝を迎える気にはなれず、ロイは女を置いて部屋を出ると夜の街へと歩き出した。
 ハボックの心をこの手に取り戻すにはどうしたらよいのだろう。自分達は恋人同士だったのだと告げたら、ハボックはどうするだろうか。それを聞いた途端、魔法が解けたように思い出してはくれないだろうか。
(おとぎ話じゃあるまいし…)
 ロイは自嘲して微かに笑うと当てもなく歩いていった。ハボックのいなくなった心の隙間が冷え切って凍り付いてロイの体を心(しん)から冷やしていく。その時、公園の木々の繁みに沿った道を俯き加減で歩いていたロイの目の前に金色の影が飛び出した。
「なっ…?!」
 ぎょっとして立ち止まったロイの目にハボックの横顔が映る。その白い顔が迫り来るヘッドライトに照らされたと思った瞬間、ロイの指が擦り合わされその直後車のタイヤが破裂した。
 ギャギャギャギャ――ッッ!!
 劈くような音を立てて制御を失った車が公園の繁みに突っ込む。辺りが騒然とするその中で、ロイは呆然と立ち竦むハボックを見つめていた。
「たいさ…」
 呟く声に我に返ったロイはハボックの腕を掴むと怒鳴るように言う。
「何をやっているんだ、お前はっ?!」
 怒りに燃えるロイの黒い瞳を綺麗だと思ったハボックは、鼻先を掠める甘い香りにロイを突き飛ばした。
「ハボッ…」
「アンタ、香水の匂いがする…っ」
 女を抱いてきたのだと、そう思った途端、心臓がギリギリと締め付けられ涙がポロポロと零れ落ちる。何が悲しいのか、何がこんなにツライのか、全く判らないままにハボックは泣き続けた。
「ハボック…っ」
「やだっ、触んなっ」
 差し伸べる手を振り払うハボックの腕をがっしりと掴むとロイは駆け寄ってくる憲兵を無視して歩き出す。
「ちょっと待ってくださいっ、事故の証言を…」
「聞きたいことがあるなら明日司令部に来てくれ」
 ロイは振り向きざまにそう言うと、ハボックの腕をぐいぐいと引いていった。正直わんわんとおお泣きするデカイ男を引き連れて歩くのはかなり人目を引いたが、今のロイはそんなことには構っていられなかった。駆ける様な勢いで家までたどり着くとガチャガチャと扉を開け、中へ入る。泣きじゃくるハボックをどうにかこうにかリビングまで連れてくると、ロイはハボックと向き合った。触れようとするロイの手を振り払ってハボックは涙に濡れた目でロイを睨む。
「香水の匂いさせてオレに触んなっ」
 ぐしぐしと泣きながら喚くハボックから酒と普段吸っているのとは違う煙草の香りを感じ取って、ロイがムッとして答えた。
「そういうお前こそ、酒と煙草の匂いがするぞ。大体あそこで何をやっていたんだ」
 突然公園の繁みから飛び出してきて、あわや車に轢かれるところだったのだ。ロイにそう言われて、ハボックは見知らぬ男にキスされたことを思い出し、手の甲でゴシゴシと唇を拭う。その仕草に何があったのか察したロイの瞳が怒りに燃え上がった。
「お前っ」
 ロイはハボックの腕を掴むと引きずるようにしてリビングを出る。階段を登っていくロイの後をつまずきそうになりながら、ハボックはロイの手をなんとか振りほどこうとした。
「離せよっ」
 ハボックの言葉に耳を貸さずに、ロイは浴室の扉を開けるとハボックを中へと押し込む。シャワーのコックを捻ると、まだ服を着たままのハボックめがけて浴びせかけた。
「なっ、何を…っ」
 腕をあげて顔を庇うハボックに容赦なくシャワーをかけながらロイは呻くように言う。
「他の男の匂いをつけてくるなんて…っ」
 嫉妬と怒りのにじむ声にハボックはハッとして顔を上げると怒鳴った。
「アンタこそ香水の香りさせてるくせにっ!」
 そう言われてロイは目を見開くと、口をへの字に曲げて頭からシャワーをかぶる。
「これでいいんだろうっ?!」
 お互いをずぶ濡れにして、ロイはシャワーを置くと乱暴に服を脱ぎ捨てた。驚いたように立ち尽くすハボックから剥ぎ取るように服を脱がすと、ロイは乱暴に口付ける。
「んっ…んんっっ」
 突然のことに驚きながらも、ハボックはさっき男にキスされた時と違って嫌悪感がないことに気がついた。むしろ脳髄を蕩かすような感覚にいつしか夢中で口付けに応えていく。ロイは縋りついてくるハボックを突き飛ばすように椅子に座らせると、ボディソープをジャバジャバと振りかけた。
「わわっ…何するんスかっ」
「煩いっ!」
 ジタバタと暴れるハボックの体にソープを泡立てるとその体を擦っていく。
「他の男の匂いなんてつけたままにさせておけるかっ!」
 吐き捨てるように言うロイをびっくりして見上げたハボックは、次の瞬間ムッと唇を曲げると泡だらけにされた手でロイの体を擦り始めた。
「アンタだって香水の匂いさせてるじゃんっ」
 ちきしょうっと呟いてハボックはロイの体を泡で包んでいく。そうして暫く黙ったまま互いを泡だらけにすると2人は肩で息をしながら見詰め合った。ひとつ息を吐いてロイはシャワーを取り上げると二人の泡を流していく。すべて流してしまうと、ロイはハボックの腕を引いて浴室を出た。ぽたぽたと全身から滴を零しながら寝室へ入るとハボックの体をベッドの上に突き飛ばす。ボスンと弾んだ体をハボックが起こす間を与えず上から圧し掛かるとロイはハボックを見つめた。
「嫌か?」
 燃えるような瞳で見つめられてハボックは息を飲んでロイを見上げる。それからふるふると首を振るとロイに向かって腕を伸ばした。
「ヤじゃないっス…」
 そう囁いた途端、背が折れんばかりに抱きしめられて、ハボックはロイに縋りついていった。


→ 第六章