羯磨3 〜side H


「よっと」
 ハボックは坂道の最後の一歩を上りきり、大きく息を吐き出す。たどり着いた小高い丘の上に立って眼下に広がる景色を眺めた。吹き抜ける風に腕を伸ばして思い切り伸びをする。その途端、脇腹に残る傷が引き攣れて、ハボックは顔を顰めた。
「いてて」
 ハボックは小さく呻いて服の上から傷を撫でる。そうして辺りを眺めながら言った。
「着いたっスよ、大佐。たぶん、この辺りで間違いないと思うんスけど」
 そう言ってハボックは手近の草の上に座りポケットから焼け焦げた手袋と鈍く光るタグを取り出して己の隣に置いた。
 ハボックの名前を忘れたくないと言っていたロイは、その言葉通り大切な名を忘れることはなかった。最後までハボックの名を胸に刻んで、そうして戦火の中散っていった。命が尽きるその瞬間、ロイは真っ赤に燃え上がる焔を地上から天に向けて轟々と噴き上げ、攻めかかる敵を蹴散らし打ちのめし追い払った。全てが終わったその時、天に向かって片腕を突き上げ、彼が守った大地の中央に立ち尽くしたまま絶命したロイを、そっと抱き締めたのはロイが最後まで呼び続けた名を持つ男だった。
 

 ハボックは金色の髪を風に靡かせ大地を見下ろす。ところどころ戦火の爪痕が残る大地は見渡す限り誰の姿も見えなかった。
「虹の麓ってのはなんもないところっスね」
 そう言ってハボックは煙草の煙を吐き出す。唇から零れた白い煙は宙をうねり青い空に消えていった。
「アンタが来たいって言ってたから来たけど……なんもない。……せめてアンタが一緒なら……一緒に来ようって言ったじゃん」
 ハボックはそう呟いて傍らの手袋を握り締める。たった一人守りたかった人を失っては、例えこの大地が残ったところでハボックの心を占めるのは果てのない虚無だけだった。。
「アンタの側じゃなきゃ息が出来なくなると思ってたんスけど、こうして息してるもんな」
 そう呟いてハボックは苦々しく笑う。笑ったその声が引き攣って涙に掠れた。
「守るって誓ったのに……ッッ」
 錬成陣が描かれた手袋を握り締めてハボックは呻く。抱えた膝に半ば顔を埋めるようにしてハボックは見える景色を睨んだ。
「卑怯っスよ、そんな形でオレの名前、忘れないなんて。狡いよ、大佐」
 彼に己の名前をずっと覚えていて欲しいと願った。その願いは叶ったけれどこんな形を望んだつもりはなかった。
「大佐……」
 ハボックは誰よりも愛しい相手を呼んでそっと目を閉じる。そうすれば瞼の裏にその姿がはっきりと浮かび上がった。
「錬金術師じゃなくてよかったって……そう思うっスよ。だってこうしてアンタを思い出せる。アンタがいなくて死ぬほど辛いけど、それでもオレは」
───忘れたくない。
 ハボックは小さな、けれどはっきりとした声で呟く。その空色の瞳にあるのは果てのない哀しみだったけれど、それでもハボックはロイを忘れてしまいたくはなかった。
「アンタが言った言葉、したこと、好きなもの、嫌いなもの、アンタの声も体も温もりも、オレに触れた指の感触も分け合った熱も、大好きなあの黒い瞳も、なにもかも一つ残らず全部───忘れない、絶対に」
 彼と過ごした日々を空間を、そしてなにより彼を愛した自分の心を、なかったものにはしたくないから。だから己の命が尽きるその瞬間まで忘れない。
 誰もいない丘の上、一人座るハボックの金髪を風が誰かの指先をまねるように嬲って吹き抜けていく。その風に答えるようにハボックの唇が動いた。
───アイシテル。
 尽きることのない想いと底のない虚無をその胸に抱き締めて、ハボックは涙に濡れた空色の瞳で広がる大地をじっと見つめ続けていた。


2011/12/12

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「羯磨2」の続きです。死にネタ書かないんじゃないのかと言われそうですが(苦笑)
もうひとつロイバージョンもあります。