大佐と犬


 (寒いと思ったら…)

 ひらりはらりと上空から舞い降りてくる雪の結晶が、一瞬の冷たい感触を残して頬の上で溶ける。
 視線を上げれば、幾重にも折り重なるように天を埋める灰色の雲と、螺旋を描き踊るように落ちてくる白い華。
 朝から天候の優れないこんな日に何を好き好んでか、市街巡回を思い立った気紛れな上司の護衛を仰せつかってから――今日に限っては、件の上司の執務机に堆く積み上げられている未決書類の山もなかったので、サボタージュの類ではないらしい――小一時間ほどである。
 はあ、と吐き出した息も空気中で凍えて、ハボックの視界を白く染めた。
 吐いた息の代わりに吸い込んだ酸素は冷たく、体の芯から冷えるような気さえする。
 一年の大半を雪に覆われた北部では、屋外へ出たら決して深呼吸をしてはいけないと聞いたことがあった。
 吸い込んだ冷気が肺を凍結させて、死に至らしめるらしい。
 だから、寒さに凍えながらひっそりと呼吸をしなければいけないのだ。
 何かの折にそう話していたのは、北部出身だという同僚のファルマンだった。
 けれども、ここは東部だ。
 アメストリス国内でも特に農業と牧畜が盛んなこの地方――東方司令部が居を構えるイーストシティは比較的発展した都市ではあるが、列車に乗って2駅も行けば車窓から臨む景色は見渡す限りの農園や牧場となる――の気候は温暖で、冬の寒さとて極寒の地のそれとは比べるべくもない。
 思い切り息を吸い込んだところで、少しばかり体が冷えた気になるくらいで、肺が凍ることもなければ死に至ることもない。

 (……いっそのこと)

 ゆっくりと肺に冷気を吸い込みながら、ハボックは自嘲した。
 そうだ、いっそのこと、寒さに凍えて死んでしまえたならどんなにか救われるだろう。
 せめて、胸を占拠しているこの想いだけでも……。
 いつの頃からかハボックの胸の内で芽吹いた思いは、決して花開くことのないものだ。
 本来なら育つはずのない場所に育ってしまったそれは、僅かな隙間に潜り込んでしっかりと深く根差してしまった。
 「ハボック?」
 空を仰いで立ち止まり、まるで天に祈りを捧げるように瞑目したハボックの耳に、その名を訝しげに呼ぶ声が届く。
 「どうした」
 ハッとして我に返れば、そこには胡乱な視線を投げ掛けてくるロイがいた。
 眇められた双眸は髪と同じ漆黒で、曖昧さを拒絶した色合いは赤赤と燃え盛る焔を操る彼にとても似合っていた。
 「…いえ。寒いと思ったら、雪ですよ。大佐」
 「雪くらい珍しくもないだろう」
 掌を仰向けて雪を受け止めるハボックの仕種に、ロイは形の良い眉を器用に片方だけ上げて見せた。
 何だそんなことか、と鼻白む表情すら、それなり以上にサマになってしまうのが、この上司がよくも悪くも他の関心を惹く所以だろう。
 「俺の田舎は、東部と言ってもほとんど南部寄りっスからね」
 だから雪も滅多に降らないのだ、と肩を竦めて言ったハボックに、ロイは可笑しそうに唇を歪めた。
 「寒いのは苦手か。北方では、馬車の代わりに犬に艝を牽かせるらしいぞ」
 「誰が犬っスか…」
 揶揄されて、ガクリと肩を落とすハボックの耳許へ、ロイが唇を寄せる。
 「おまえは、私の可愛い犬だよ」
 甘い囁きに、刹那、呼吸すら止まった気がした。
 「……犬なら、ずっとあんたの傍に置いて愛してくれますか?」
 犬としてでも構わない、そう呟いたハボックの声は、思わず毀れてしまったそれで。
 けれど、聞き逃してしまいそうな微かなそれを、ロイはしっかりと拾ったようだった。
 「ハボック?」
 その意味に瞳を瞠ったロイに、内情を吐露した己の失態を悟ったハボックの頬がさあっと朱に染まる。
 「いえ、何でもないです。すんません、バカなことを……」
 刷毛で頬紅を塗ったように色付いた頬を隠すように、顔を背けようとするハボックを許さずに。
 「どうやらおまえは本物のバカのようだな。ハボック」
 「すんません…」
 ロイは呆れた風に闇色の双眸を狭めると、失言に恥じ入る部下をひたと見据えた。
 「そんな卑屈な求愛の仕方があるか。愛して欲しいなら、素直にそう言え」
 「……大佐?」
 きょとんと瞳を丸くするハボックの耳許に、ロイの唇が寄せられる。
 「求めよ、されば与えられん。その身を投げ出してでも私の愛を請う気があるなら、嫌というほどくれてやる」
 火傷をしそうなほどに熱い吐息が吹き込まれれば、吃驚した拍子に仰向いた視界に空が映った。
 灰色に澱んでいた空が、流氷のように割れている。
 重く立ち込めた雲の切れ間を裂くように、いつしか光が射し込んでいた。
 舞い踊る風花が、天空から零れ落ちた光を弾いてキラキラと輝く。
 密やかな音色を奏でるオルゴールのように、いくつもの螺旋を描きながら、やがては空に融ける雪の結晶たち。
 堆い根雪に凍えていたハボックの心もまた、温かな熱に熔かされていくのだった。



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ラブもエロもない薄暗い話ですみません(;_;)
三年ほど前に書きかけたまま日の目を見ることもなく、PCの下書フォルダに放置していたため、すっかり腐り切ってもはや黴臭さが漂っているかと…orz
多分、強かでガチ攻めな大佐に恋焦がれるハボックを書きたかったのだと思います(!)が、激しく方向性を間違っていた当時の自分を捕まえて、小一時間説教したい気分です
ハボックの穴に突っ込んで反省します…←

2009.6.16 伊豆内ミサ


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思いがけずミサさまからこんな素敵なお話を頂いてしまいました!もともと登場人物の会話だけでなく、周りの描写のしっかりしたお話が好きな私ですが、物凄く詩的で美しい表現にうっとりしてしまいますv最初の垂れ込めた空から雪が舞い散る描写もさることながら、最後の光に照らされた雪の結晶の風景も鮮やかに目に浮かんでとっても素敵だと思います。「犬でもいいから」と内心を吐露してしまうハボもメチャクチャ可愛いし、その後の大佐のセリフもタマリマセンッ!あの傲慢とも言えるセリフがいかにも大佐らしくてv
ミサさま、本当にありがとうございました!!