平行世界 匂編


 何となく自分の周りの空間が震えた気がしてジャンは野菜を刻んでいた手を止める。ハッとして振り向けばそこには自分と瓜二つの顔をした男が立っていた。
 この世界には幾つもの世界が平行して存在している。普段、それらの世界は決して交わる事はないが極稀に何かの拍子に接触してしまう事があり、今ジャンの目の前にいるのはかつて偶然その存在を知ることが出来たもう一つのアメストリスに住むもう一人のジャン・ハボックだった。
「ハボ?!どうしたの?」
 ジャンは濡れた手をタオルで拭きながら己と同じ顔を覗き込む。ブスーッとして口を引き結んでいたハボックは心配そうに見つめてくる空色の瞳を見返して言った。
「酷いんだ、大佐」
「は?ロイがどうかしたの?」
「もう色々色々我慢したけど今回ばっかりは堪忍袋の緒が切れた」
 以前、自分もマスタングに腹を立ててもう一つのアメストリスに家出したことがあったがハボックの方が喧嘩を理由にこちらに来るのは初めてだ。一体何があったのだろうとジャンが理由を聞こうとするより早くハボックが言った。
「とにかくオレはここにいる事に決めた。でもあの人放っとくと何するか判んねぇし、世界のバランスもあるし、そういうわけでジャン、悪いがお前あっちの世界に行ってくれ。どうせあの人、オレとお前が入れ替わったところで判るとも思えないしな」
は?」
「じゃ、そういうわけでよろしく」
「えっ?あ、うそっ」
 よろしくと言うと同時にハボックがジャンの肩をトンと押す。不意打ちにグラリと倒れ掛かったジャンは自分の体が急速に時空の流れに吸い込まれていくのを感じた。
「ウソッ!!やだ、ハボッ!!」
 慌てて伸ばした指の向こう、自分と同じ顔が揺らいで暗闇に消えていく。倒れた背中がドンと壁に当たって、ハッとして辺りを見回せばジャンは見慣れたキッチンに一人で立っていた。
「ここ
 ジャンはキッチンを出てダイニングへと足を踏み入れる。そこは確かに自分がよく知っている場所ではあったが自分が暮らしている場所でない事も確かだった。
「どうしろって言うんだよ
 ジャンがそう呟いた時、ガタンと音がして振り向いたそこにはロイが立っていた。
(ロイ!)
なんだ、お前。帰ってきてたのか。凄い剣幕で出てったから戻ってこないのかと思った」
 ムスッと綺麗な顔を顰めてそう言うロイをジャンは黙ったまま見つめる。そんなハボックをロイはキッと睨んで言った。
「お前だって悪いんだぞっ!ギャイのギャイの煩い事ばっかりいうからっ!」
 そう言えば我慢していた気持ちが昂ってきたのか続けざまに自分を罵るロイを見つめてジャンは内心冷汗を流す。
(ロイ、オレがハボじゃないって判んないのかな。状況さっぱりだし、ここでオレが入れ替わってるって言っちゃっていいんだろうか)
 下手なことを言って話が益々こじれるような事があっては困る。内心そんな事を思っているにも係わらず見た目は冷ややかに見つめてくる空色の瞳に、ロイは顔をクシャクシャと歪めると怒鳴った。
「言いたいことがあるなら言えっ!卑怯だぞっ、ハボック!!」
(そんな事言われても
 困りきってただロイを見つめるしかないジャンが何か言うのをロイは少しの間待っていたが、何も言ってくれないと判ると部屋を飛び出していってしまう。ジャンは「はあ」と大きなため息をつくと言った。
「どうしよう、やっぱりちゃんとオレがハボじゃないって言った方がよかったのかな」
 そう言ってふと、自分の世界はどうなっているのだろうと思う。もし、マスタングも自分とハボックが入れ替わっている事に気付かなかったら。
「それって凄いショックだ
 酷く切ない気持ちになりながら、ジャンはロイの後を追って部屋を出た。2階に上がりロイの寝室の扉を叩く。返事はなかったが構わず扉を開けた。
「ロイ?」
 そう名を呼びながら数歩部屋の中へ入るが求める姿はない。どこに行ってしまったのだろうと首を傾げたハボックの背に、ロイがギュッと抱きついてきた。
「私がっ、私が悪かったから、だからッ!!赦してくれ、ハボック!お前が好きなんだッ!!」
 恐らくは必死の思いでそう言葉を紡いだであろうロイをジャンは肩越しに見下ろす。なんと返事を返そうとジャンが逡巡するうち、大きく目を見開いたロイがジャンのシャツをグイと引き寄せ匂いを嗅いだ。
……お前、ジャン?」
「あはい、そうっス」
 聞かれて仕方なしにそう答えればロイがまじまじと見つめてくる。次の瞬間ボッと火がついたように紅くなってロイは怒鳴った。
「なっ、何で早く言わないんだっ?!」
「いやだって、なんかタイミング逸しちゃって
「だからって、お前ッ」
 人違いで告白してしまった事にロイは決まり悪そうに目を逸らす。ジャンはそんなロイを見てくすりと笑った。
「ねぇ、もしかして抱きついた匂いで判ったんスか?オレがハボックじゃないって」
う、まあ……その前はカッカしてよく見てなかったし」
「普段オレらのこと犬呼ばわりしてるっスけど、ロイも意外と動物的なとこありますね」
 クスクスと笑うジャンにロイは益々顔を紅くする。ジャンは振り向いてロイを優しく抱き締めると言った。
「喧嘩の原因はなんスか?ハボに悪いことしちゃったっスね、あんなに可愛くロイに謝って貰っちゃって」
「ジャン
 紅い顔で睨んだロイにジャンが何か言おうとした時。
「ジャーーンッッ!!」
 空間がグラリと揺れてマスタングが飛び込んでくる。それに続いてハボックが現れて、ジャンとロイは思わず互いを抱き締めあった。
「あっ、この、私のジャンに何をするッ!」
 その様子を目にしたマスタングがキッと眦を吊り上げてロイからジャンを引き剥がす。マスタングはジャンをギュッと抱き締めてその肩口に顔を埋めるとホッとしたように言った。
「ああ、私のジャンの匂いだッ」
「大佐?」
 ギュウギュウと抱き締めながらそう言うマスタングにジャンは首を傾げる。マスタングはジャンの頬に手を添えてチュッとキスをすると言った。
「いくらこの阿呆がしおらしくジャンの真似をしたところで、お前とジャンではまるで香りが違うッ!ジャンはお前のように汗臭くないんだっ、甘くていい香りがするんだぞッ」
「はあっ?なに言ってるんスかっ、アンタだってロイとは全然違う匂いでしょッ!ロイはアンタみたいにオヤジ臭い匂いはしないんスよッ!」
「なんだと、貴様ッ!」
 互いの相手を抱き締めてぎゃあぎゃあ言い合うマスタングとハボックを目を丸くして見つめていたジャンが笑い出す。その笑い声に思わず押し黙った二人にジャンは言った。
「もういいでしょ。とりあえず自分の相手じゃないって判ったんだから。ロイ、さっきの、もう一回ハボに言ってくださいね。そうしたらすぐ仲直りできるっスよ」
「えっ?!あでもその
「なにっ?何て言ったんスかっ?」
 うろたえるロイとなになにと聞くハボックにくすりと笑うとジャンは自分を抱き締めるマスタングを見上げる。
「帰りましょ、大佐」
「あ?ああ、そうだな」
 頷くマスタングの襟元にハボックは額を寄せて目を閉じた。
「ふふ大佐の匂いだ」
 そう呟いたジャンと彼を抱き締めるマスタングの姿が大きく揺らいだ次の瞬間、二人はもう一つのアメストリスへと帰っていった。



09/02/16