書斎で本を探していた私は聞こえた物音に本棚に伸ばしかけた手を止める。なんだろうと書斎を出て、物音が聞こえたリビングの扉を開ければ、淡く輝く毛をした犬が立っていた。
「珍しいな、そんな格好で」
 彼はいつも私の前では人の姿をとっているのが常だ。犬の姿で現れるなど珍しいと、彼に近づこうとした私は感じた違和感に足を止めた。
「誰だ、お前は」
 てっきり彼だと思ったがどうもそうではないらしい。彼の他にもこんな美しい犬がいるのかと思いながら尋ねれば犬が答えた。
「名前を返してもらおう、人間」
 突然そんな事を言われて私は眉を顰める。この犬と会うのはこれが初めてで、勿論名前など知るはずもなかった。
「悪いが覚えがないな」
 いきなり他人の家に上がり込んで言いがかりのような事を言う犬を私は睨みつける。そうすれば犬はズイと一歩踏み出して睨み返してきた。
「ふざけるな、盗っ人猛々しいとはこの事だな!奪ったろう、あの男がアイツから奪って隠しておいた名をッ!」
「……え?」
 犬の言葉に私は目を見開く。咄嗟に返す言葉を口に出来ずにいれば、犬の蒼い瞳が物騒な光を帯びた。
「返さないと言うなら力付くで奪うまでだ」
 そう言った次の瞬間淡い銀色に光る犬が飛びかかってくる。発火布を取り出す間もなく、その鋭い牙と爪から少しでも身を守ろうと体を捩った私の前に金色の光が立ちはだかった。
「やめろッ」
 顔を庇って上げた腕を下ろせば、彼が私を守るようにして銀色の犬との間に割って入っている。銀色の犬は驚いたように彼を見つめていたが、やがて振り絞るような声で言った。
「何故だ、何故庇い立てする?なぜ名を奪い返さないッ?」
 詰る響きを載せた問いに彼は俯いて答えない。そうすれば銀色の犬は蒼い瞳に怒りを燃え上がらせた。
「そうやってまたお前は泣くのかっ?人間を真似た姿をしてっ、人間なんかに肩入れするからそんな目にあうんだぞッ」
「でも、オレは……」
「俺は認めない、そんな事赦さない」
 低い声に彼はハッとしたように顔を上げる。何か言おうと唇を震わせた彼を睨んだ銀色の犬は私を見て言った。
「名は必ず返してもらう。覚えておけ、人間」
「待って!オレの話――――」
 引き止める彼の言葉に答える事なく、尻尾を一振りして銀色の犬は姿を消してしまう。宙に向かって伸ばした手をダラリと下ろして彼は私を振り向いた。
「怪我、ないっスか?」
「ああ、大丈夫だ」
 そう答える私が本当に怪我がないか確かめるように、彼は私の体を隈無く見つめる。漸く納得したのか、彼はホッと息を吐き出した。
「コーヒー淹れますね」
 そう言って彼はキッチンへと消える。ソファーに座って待っていると、彼がトレイにコーヒーを淹れたカップを載せて戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
 目の前に置かれたいい香りのするカップを手に取り口をつける。向かいのソファーに腰を下ろして、彼は包み込むようにして持ったカップに顔を寄せた。
「驚かせてすんませんでした」
 小さく身を縮めるようにして彼が言う。
「あの犬は?」
「兄弟……みたいなもんかな」
 彼は少し考えてから答えた。
「いつも一緒にいた、もうずっと長いこと。でもオレが名を奪われて、オレ達は離れ離れになった」
 彼はコーヒーを一口飲んで言葉を続ける。
「騙されて奪われはしたけど辛くはなかった。あの人は優しかったしオレは人が好きだったから。楽しかったんスよ、あの頃は。楽しくて――――幸せだった」
 そう言って懐かしそうに目を細めて宙を見上げる彼を見れば、私の中にザワザワと昏い感情が音を立てる。そんな事にはこれっぽっちも気づかず、彼は言った。
「でもアイツはそれが赦せなかった。アイツは人が嫌いなんです。だからオレ達は会わずにいたけど、あの人が死んだと知ってアイツはオレを迎えにきた」
 言って目を伏せる彼を私はじっと見つめる。
「名を返して欲しいか?」
 そう尋ねれば、ハッとしたように彼は私を見た。何も答えないまま彼は綺麗な空色の瞳で私を見る。私はその瞳を真っ直ぐに見返して言った。
「悪いが返すつもりはない。返して欲しいと言うなら奴がしたようにするしかない」
「ッ!!」
 弾かれたように腰を浮かせて彼が私を見つめる。泣き出しそうに揺れる空色に手を伸ばして、私はそっとその目元を撫でた。
「方法はそれだけだ」
 私はそう言うとカップをテーブルに置き立ち上がる。彼をそのままにリビングを出ようとしてチラリと振り向けば、閉じる扉の隙間からソファーに座り込んで俯く彼の横顔が見えた。
 彼に名を返そうとは思わない。あの銀色の犬なら尚更だ。例え死んでも返したくないと思う私は、かつて彼から名を奪い軒下に名を刻んだ札を隠した男と同じだろう。それはきっとあの銀色の犬も同じに違いないと、窓の向こうの綺麗な空を見上げて私は思った。


2012/10/25


→ 五